2010年3月31日水曜日

小伝馬町にある処刑場跡で考えた


小伝馬町に行く用事があったので、伝馬町処刑場跡に立ち寄りました。江戸時代から明治初期まで、日比谷線小伝馬町の駅周辺は大きな牢屋敷だったのです。吉田松陰は、安政の大獄で投獄され、ここで斬首刑になりました。松陰を語れるほど知識はないのですが、随分昔に吉田松蔭に関する本を何冊か読んだ覚えがあります。

台湾にいるカブちゃんが、彼のブログで「華夷の弁」にふれていました(http://kabu-taiwan-kikou.blogspot.com/2010/03/blog-post_26.html)。

松陰が教えた松下村塾の教育理念は、「人たる所以(ゆえん)を学ぶこと」と「君臣の義、華夷の弁を明らかにすること」です。松下村塾からは、高杉晋作、山縣有朋、伊藤博文、久坂玄瑞、前原一誠などが出ています(松下政経塾とは違いますよ、念のため)。カブちゃんもブログで説明しているように、「華夷の弁」とは、自分の生まれた土地に誇りを持った上で、他国と比較検討しなさいと言うことです。

どうも日本人は、アメリカや中国などの近隣諸国を冷静に評価しているとは思えない。劣等感と優越感が時と場合、相手によってコロコロと変化するように感じます。つまり、これはコンプレックスですね。過度に優越感を持つのも考えものですが、自分の故郷や生まれた国に対して劣等感を持つ必要はないし、卑下する必要もないのです。

グローバルになると言うことは、無国籍になるということではありません。むしろ、自分の生まれたところの文化に立脚するということです。国によって考え方は違う。これは、恐らく我々の生きている間は変わらないでしょう。だから、日本人も日本人の文化の上に立ち、堂々とすればいいのです。そうすれば、相手も敬意を払ってくれるはずです。

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2010年3月30日火曜日

東京郷土料理の江戸前寿司



江戸時代、屋台の外食産業として始まったにぎり寿司。江戸前寿司は東京の郷土料理です。列島各地にある郷土料理。日本の食文化の歴史は奥が深い。

夕べは新宿西口でお鮨を食べました。写真は、帰りに作ってもらったおみやげ用の折り詰めです。

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2010年3月29日月曜日

日本にいると理解しにくい日本の教育問題

Max Weber

今更何をか言わんやですが、教育の問題は難しいですね。教育は「国家百年の計」といっても、日本にはどこに「国家」があるのか見つからないからです。

教育には国家意識というものが、建物の基礎工事のようにあるべきなのでしょうが、日本では「国家」ということをストレートに言うことが出来ませんね。 「国家は悪である、国家にはひどい目にあった、、、」。こういったイメージが終戦直後に形成されて、戦後民主主義教育に育まれ今に至っているからでしょうね。もう60年以上経っているのに。

日本国憲法は、前文にある「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」を前提としています。ご存じのように、これは占領軍の最高司令官であるマッカーサーの理想論ですね。人間なんてまだまだ愚かで、21世紀になっても国際社会は日本人が考えるほどパラダイスでもユートピアでもないのです。

マックス・ウェーバーは、「国家とは、或る特定の地域の内部で正当な物理的強制力の独占を要求する人間共同体である」と言いました。これは、特殊でも極端な考え方でもなくて、現代の国際社会でも常識です。ソ連が崩壊し冷戦はなくなりましたが、衰退したアメリカと発展する中国の超リアリスティックなつばぜり合いを見ても分かります。

ウェーバーの言う「正当な物理的強制力」とは、国防と警察のことです。「人間共同体」とは、自分の住む或る特定の地域を愛する人たち、我々の場合は日本人ですね。つまり、郷土愛です。郷土愛の集合体、これが愛国心になるわけです。防衛と警察が暴走しないために、国の基本法である憲法や法律があります。したがって、防衛、国内治安としての警察権力、そして憲法がそろって国家になるのです。

アメリカの保護国で在り続けることを利用しながら、対等なパートナーシップ、日米関係を声高に主張するのは道理が通らないですね。 アメリカだけでなく、国際社会はみんなそのことを承知しているのです。だから、日本は国際社会でなかなか相手にされない。

私は学校の先生でもなく、政治家でもありません。たまたま日本を離れていた時間が長かったのでこのように感じるのだと思います。 教育問題を真面目に考えると、「日本人の国家意識の欠如」という大きな壁にぶちあたってしまいます。

親の責任を考えることもなく子ども手当に依存しようとするのは、保護国であることを利用しながらアメリカに対等なパートナーシップを求める日本政府の姿勢とよく似ていませんか?

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2010年3月21日日曜日

人生で必要な知恵はどこで学ぶのか?

1969年。今考えるとこの年はすごい年でした。

沖縄返還決定、東大紛争、月面着陸、ウッドストック、新宿西口のフォークソング、金田400勝、三沢高校の太田幸司、ビートルズの「LET IT BE」、ストーンズの「ホンキートンク・ウーマン」、尾崎キヨヒコ、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」、はしだのりひこの「風」、映画「真夜中のカーボーイ」、「明日に向かって撃て!」、「イージーライダー」、「ローズマリーの赤ちゃん」、テレビでは「鬼警部アイアンサイド」、、、。

中学生だった私にとっても人生のターニングポイントでした。大袈裟ではありません。 この年に、映画とか音楽とかいっぱい観たり聞いたりして「人生で必要な知恵は学校で習うのではない!」と勝手に確信した訳です。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(ロバート・フルガム 1990年)という本がありましたが、幼稚園児だと小さすぎて何が何だかよく分かりません。

competitionという単語を「競争」と和訳したのは福沢諭吉です。幕末に翻訳したのですが、当時の日本には競争の概念がなかったのです(または極めて弱かった)。300年近くも鎖国をしていた封建制度の島国ですからね。諭吉が幕府に「競争」の概念を説明したら、「争いはよろしくない」と言われたそうです。やはり、列島の中での相互扶助が前提だったのでしょうね。

戦後65年、日本人は恐らく「自由」も「競争」も本当はよく分からないまま頑張りました。経済が成長し、奇跡の成長、エコノミックアニマルだと揶揄嘲笑されるほど調子がよかった。しかし、1990年代に入り、ソ連の崩壊、東西ドイツの統一、中国の急激な発展とアメリカの没落、世界情勢はがらりと様子が変わってしまった。そして、日本は今に至るこの20年間の世界の変化を読めなかった。

今の日本では、「競争」を否定し社会主義思想を政府が率先して持ち込んでいるかのようです。耳障りのいい言葉に「何かいい事あるかな」と多くの人が騙されてしまいました。 日本列島の中だけの相互扶助に甘んじるのであれば、このままでいいでしょうが、未来を生きる子どもたちのためにも多くの人に覚醒してもらいたいものです。

1969年への郷愁から話が飛躍してしまいましたね。今の日本の政治を見ていると、どうしても左翼単純教条主義である全共闘の学生運動とだぶってしまいました(私は全共闘世代よりもずっ~と若いので関わっていませんよ、、、、)。

写真は、Performance社製のストラトモデルです。ネックが薄いのですが、エボニーのフィンガー・ボードが気に入っています。

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2010年3月19日金曜日

肉豆腐丼でもありですよね?


アメリカ産でもオーストラリア産でもない、国産牛の自家製肉豆腐丼。牛丼の旨さは牛肉の質というよりも肉の厚みにあるような気がします。厚くもなく薄くもない、つまり、牛丼の厚みというものがあるような、、、。

豆腐好きの私としては、家では牛丼でなく肉豆腐丼です。アメリカ人の中には、寿司は大好きだけど、すき焼きや牛丼の甘辛味はダメだという人は結構多いですね。

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2010年3月17日水曜日

日本の戦後教育に欠落したもの

日本は、全体主義にも社会主義にも民主主義にも社民主義にも衆愚にもアナーキズムにも、あらゆる方向に向かっていますね。それは、日本に国としての「アイデンティティ(identity)」がないからでしょう。そして、それを修正するには義務教育から変えていくしかないと思います。 今、義務教育を総取っ替えしても、効果が出るまでに20~30年はかかってしまいます。

私は子供の頃から「日本はなぜ300万人も死ぬような馬鹿な戦争に突入したのか」と、疑問に思っていました。ところが、私の受けた日本の義務教育はそれを解明する助けにはなりませんでした。それが日本の戦後民主主義の大きな問題だろうと思います。私が義務教育を受けた頃から随分と時は経ったのですが、ここ数ヶ月日本の教育事情を調べてみて、今の日本でも何ら変わっていないことがよく分かりました。

戦後民主主義の代表のような鳩山総理は、日本という国家のアイデンティティをどう考えているのでしょうか?お祖父様の鳩山一郎さんはマッカーサーに公職追放になりました。鳩山一郎さんが言いたかったことは、アメリカ側の戦争責任も含めて戦争で亡くなった人たちのためにも戦争原因を解明し、戦争全体を振り返ることではなかったのかと思います。

このことを先送りすることによって、いつまでたってもグローバルに活躍できる日本人は出てこないでしょう。

以下は、吉田満さんの「戦後日本に欠落したもの」からの引用です。吉田満さんは、戦艦大和の生き残り将校です。

吉田 満 「戦後日本に欠落したもの」 (昭和55年 文藝春秋)

われわれ日本人は、戦争と敗戦の経験を通じて、本当に目覚めたのか。日本が孤立化の道を突き進んだ果てに、奇襲攻撃によって戦端を開かざるをえなかった経緯の底流にあるものを、正確に解明することができたのか。

自分は日本人であるという基盤を無視し、架空の「無国籍市民」という前提に立って、どれほど立派な、筋の通った発言をくり返そうとも、それは地に足のついた、説得力のある主張とはならないであろう。平和、自由、民主主義、正義。そのどれを叫んでも、言葉が言葉として空転するだけで、発言は心情的に流れ、現実の裏づけがないのである。

昭和年代の日本が戦争に傾倒してゆく過程で、最も欠いていたものは、眼前にある現実を直視し、世界のなかで日本が占めるべき位置を見抜く大局観と、それを実行に移す勇気であった。列国とのバランスの上で日本にあたえられるべき座標を、過たずに見定める平衡感覚であった。

戦時下の日本が持っていた最もいまわしきものは、おそらく「人間軽視」「人間性否定」だったであろう。したがって今日、その反動のように、「個人の尊重」を誰もが声を大にして叫ぶが、事実、人間は人間として尊重されるようになったであろうか。今の時代は、人間らしい生き甲斐をあたえてくれているのだろうか。

人間が大切にされているように見えるのは、人間そのものとして尊重されているのではなく、ただおのれの権力を及ぼすべき対象として、自分の利害にかかわる貴重な要員として重視されているに過ぎないのではないか。

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2010年3月16日火曜日

国会中継から学ぶことは?

日本の国会中継は楽しめますね。見せ物として面白い。しかし、国会議員の先生方の発言はどうも気になるところが多いのです。言葉使いもありますが、ほとんどが、一方通行の応酬です。これでは「議論」とはほど遠い。

衆議院・参議院のホームページに審議中継がビデオライブラリーとして保存されています。政治家の先生達も、これまで以上に勉強しないと、国民に力量を見透かされますね。国民は、新聞やTVの編集された情報ではなく、インターネットを利用して日本の政治の実態(レベル)を自分の眼で確認するのがいいでしょう。

議論というのは、議論を通じて、そこから新しいアイデアとか結論を導き出すことをしなければいけないと思うのですが、日本の国会では、互いに自分の主張をするだけに終始しています。ひどい人になると、相手が言い終わらないうちに、相手の発言の上からかぶせてきます。これって、全共闘世代共通の特徴なのですかね?(1941~1949年生まれ)。実は、日本の企業でもよく見かけるシーンです。

衆議院・参議院議長もお粗末ですね。全くファシリテーションになっていません。あのやり方が日本の国会の「カタチ」であると言えばそれまでですが、、、国民の代表機関としては寂しい限りです。

第4回座談会の稿で(3月10日)、コミュニケーションの前提として読解力に言及しました。少し補足します。

本を読む時に、本の内容と議論しながら読むのが大事ではないかと思うのです。本と格闘すると言うか、、、。読みながら考える、つまり、同意したり反論しながら読んでいく。本を一冊読み終えるまで待つ必要はありません。反論意見をページに書き込んでもいいと思います。相手が本であっても、コミュニケーションの基礎訓練となるのです。

ブログのコメントなんかも重要ですね。双方向のコミュニケーションであり、これも議論だからです。ところで、読解力が乏しい私が書くブログは、コメントのほうが知的であるように感じます。


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2010年3月15日月曜日

プレッシャーのレベル ~ 日米比較


日米のプレッシャーレベルの比較です。横軸は年齢です。縦軸はプレッシャーのレベルですが、数字に特別な意味はありません。日本の子どもには時間がありません。チャレンジの連続です。受験勉強の連続で、自分で考えるヒマ(閑暇)がないまま社会人になって行きます。

大人の世界は、圧倒的にアメリカが大変です。

アメリカの子どもは比較的ゆっくりとしてますが(プレッシャーもあります)、一旦大人(grown-up)になったら、さぁ大変。プレッシャーの連続です。以下のようなプレッシャーが連続して襲ってきます。
  • 就職(アメリカには学生人気企業ランキングも就職情報誌もないですよ)
  • 婚約から結婚にいたる過程
  • 住宅購入(ローンの設定を含む)
  • 子育て(親が責任を持つことが前提)
  • 結婚の維持(涙ぐましい努力。それでも離婚が多い)
  • レイオフ(簡単にクビになる)
  • リタイアメント(健康保険・年金は破綻している)
  • 老後(お金がない老後は悲惨)
これほど大変なアメリカの社会ですが、日本よりも自殺率が低いのはどういう事でしょうか?それは、子どもの頃に自尊心が確立されているからだと思います。これがアメリカの教育が目指しているところだからです(勿論、100%出来ているとは言えませんが)。

今後は、日本もアメリカのようになるのでしょうか?それとも、子どもにとっても、大人にとってもプレッシャーが極力ない国を目指すのでしょうか?


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2010年3月12日金曜日

日本の現状、子どもたちの将来

「祖国があなたのために何ができるかを問うより、あなたが祖国のために何を行うことができるか問うてほしい」

My fellow Americans: ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.

これは、ジョン・F・ケネディの有名な言葉です。もし、今の日本の政治家が、例えば首相が、国民にこう宣言したら、日本社会ではどのようなリアクションが起るのでしょうか?日本人はパニックになってしまうかも知れませんね。

昨年の夏、ちょうど選挙の頃に帰国した私は、「政権交代。」で熱狂的な精神状態にいる日本列島に当惑しました(「政権交代」の最後に「。」があるのも不思議でした)。これは、もしかしたら、敗戦後数年間シベリアで抑留生活を送り復員してきた日本兵のような感覚かも知れません。

みんなが優しい日本では、弱者救済の美辞麗句のもとに、お互いが寄りかかるばかりの人たちが増えてしまいました。これからの日本を生きていく若い人たちには自立・自尊の精神を育んで貰いたいと思います。日本の世の中に身を委ねるのではなく、自分で意思決定していく強靱な精神力を養うことが重要だと思います。自分で取捨選択し、あらゆることに対して出来るだけ自分の意見を用意しておくことです(私自身あまり出来なかった反省からです)。

日本社会の流れに身を委ねないことです。自分の閑暇を大事にすることです。閑暇とは英語で言うレジャーです。レジャーとは、家族で遊園地に遊びに行くことではなく、ボーっとするヒマな時間です。ヒマな時間がないと、悩んだり考えることができません。客観的に情況を判断することなんてできないのです。

最近の塾の中には、子どもたちの「生きる力」を育むなんていうのもあるようですが、営利企業である塾が掲げる言葉としてはちょっとヘンですね。学校、塾、お稽古事に忙しくて時間のない子どもたちに一番必要なのは、閑暇であり、閑暇をどう使うかを自分で考えることだと思います。こういった習慣が、大人になってから自分で意思決定する力につながるのだろうと思います。

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2010年3月10日水曜日

第4回 座談会の話題から

上のスライドは、「コンサルタント育成のフレームワーク」として我々が使っているものです。

コンサルタントは、それぞれが専門的なスキルをもって仕事をしているわけですが、一番大事なことは、赤線で囲んだ基礎の部分です。この「アトリビュート」と「基本スキル」ができていないのに、専門スキルだけあっても、これはコンサルタントとして成功はしません。そして、これらの基本的なスキルは、大人になってからでは手遅れであるものも多く、子どもの頃からの積み重ねによる部分が大きいのです。

例えば、コミュニケーションスキルです。コミュニケーションスキルは、ビジネスの世界で重要とされており、入社試験でもキーポイントであると言われています。しかし、企業の面接担当者は、コミュニケーションスキルがどういったことか、ちゃんと理解して大学生を面接しているのでしょうか?かなり怪しいですね。

コミュニケーションスキルとは、自分を知り自分を表現し、かつ、相手の立場を理解できるということです。これが大前提です。最近の言葉では、「KY(空気が読める)」と言うことかも知れません。孫子の兵法で言えば、「知己知彼、百戦百勝」です。

では、このコミュニケーションスキルはどうやって形成されるのでしょう。

私は子どもの頃の読書に端を発するのではないかと思っています。つまり、読解力の養成です。本を読んで読解力を養うことが、コミュニケーションスキルの基礎になるのです。読解力がないのにビジネスの交渉で相手の気持ちを読むことは簡単にはできません。読解力が不十分で日本語の会話がままならない情況で、外国語でのコミュニケーションとなると、ひっくり返っても出来ない相談なのです。

上のスライドの一番下のアトリビュートの多くは、子どもの頃からの積み重ねだと思います。そして、コミュニケーションの基礎となるものです。

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2010年3月8日月曜日

納豆ご飯

日本には納豆ご飯があります。私は大阪生まれですが、なぜか納豆が大好きです。炊きたてのご飯に美味しい納豆、そして欠かせないのが根深ネギ。納豆に万能ネギはダメです。根深ネギの白いところが必須です。少し多めの辛子と醤油。卵はなくてもいいのですが、日本ではせっかく生卵が食べられるので、卵も入れて納豆ご飯です。

日本の大豆自給率は5%以下だそうです。日本の産業が全てダメになったら、良質の米と大豆を作って納豆を食べようではありませんか!

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2010年3月7日日曜日

新聞は読むべきか?テレビは見るべきか?

以下は、第三代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンの言葉です。

「新聞を読まない人は、読む人よりも真実に近い」

新聞だけでなく、テレビも見ない人は、見る人よりも真実に近い。これは、まさに今の日本に言えることでしょうね。私はインターネットでニュースをチェックしますが、20年ほど日本のマスメディアから隔離されて生きてきました。だから汚染レベルは比較的軽度なのでしょう。しかし、帰国して数ヶ月もたつと日本の街の音の暴力(例えばJR新宿駅のホーム)にも慣れてしまうのと同じで、半年もすると日本のマスコミにも慣れてくるから恐ろしいものです。

最近のテレビ番組は本当にひどいですねぇ(ずっとこうなのかな、、、)。たぶん、不景気で経営が苦しいんでしょうね。背に腹は替えられない番組作りにひたすら進んでいるようです。どこの国の人だか分からないような輩が、知識人の代表であるかのように報道番組でコメントします。司会者も出鱈目ですね。単に進行をつかさどるのではなく、ニヤニヤした愛想笑いの奥底に悪意を感じます。

「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。試みに見よ、世間の愚民、人の言を信じ、人の書を信じ、小説を信じ、風聞を信じ、神仏を信じ、卜筮(ぼくぜい)を信じ、、、、、」 これは、例によって福沢諭吉の言葉ですが、今の日本であれば、「国民は新聞・テレビ報道を信ずと雖(いえ)ども、その信は偽を信ずるものなり、、、」です。つまり、信であると思って信じているものが、嘘偽りを信じていることに他ならない。

子ども手当を実施することにより、家庭のテレビがハイビジョン液晶テレビにグレードアップするのか、子ども部屋に子ども専用テレビが増えるのか、はたまたタンス預金にまわるのでしょうか。


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2010年3月6日土曜日

日本人の意識構造

30数年ぶりに会田雄次の「日本人の意識構造」を読みました(1972年出版)。

会田雄次は、京都帝国大学文学部の講師だった1943年に応召し、ビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍しました。終戦でイギリス軍の捕虜となり、1947年に復員するまでラングーンで拘留されました。

会田さんは、多くの著書の中で日本人論を展開しています。当時(昭和45年)の日本社会を戦前派と戦中派と戦後派に分けて比較しています。会田さんの言う戦前派は明治生まれで大東亜戦争に行かなかった人たちで、戦中派は会田さんのように当時20代で戦争に行った人たちです。戦後派に関しては、第一次戦後派と戦後生まれの第二次戦後派(団塊世代を含む)に分類しています。

会田さんの言う第一次戦後派は、私がマッカーサー呪縛世代と呼んでいる世代で、会田さんはこの世代を 「インチキなサッカリン漬け教育でふやけた世代」と容赦ないのです。第二次戦後派に関しては、まだ若すぎて何とも言えないとしながらも、ゆとりと自信に乏しい競争世代であると指摘し、その原因は、宙に浮いた理想主義と自分たちの劣等意識を持つ先生たちの教育にあると言っています。

もし会田さんが生きていたら、今の日本をどう評論したでしょうね。辛口の会田さんは、「日本人の、ほめられると有頂天になり、けなされると逆上する欠点は、団塊世代が受け継ぎ、団塊に続く日本のえせリーダーたちに滔々と受け継がれている」と言うのではないでしょうか? (私の想像ですよ、、、念のため)。

「日本人の意識構造」のあとがきより

アメリカはまだよい。そこにはきびしさがある。自分が誤っていたと認めれば、率直に反省し、大胆に自分を変えていける国民だ。今日の苦悶を脱皮するための転機としうる可能性がある。しかし、うわっつらだけをアメリカに真似てきた日本はどうなることか。たとえばえせデューイ哲学でおかされきった教育界は、すっかり偽善理想主義と責任転嫁術だけを身につけてしまった

(中略)

私は、今日は、もう戦後の自失を回復して日本人自身が日本を発見してよいときではないかと思う。そのことは何も戦前の独善性に帰ることを意味しない。ただ、もう少し広く深いところから日本人が自らの長所と短所を見きわめ、新時代へと前進する手がかりをつかむべきだというだけである。

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2010年3月3日水曜日

エリック・クラプトンから日本の教育問題を考える

( マーチン 00028ECB クラプトン モデル シリアル0228)

「学校で学んだことを、すべてを忘却してもなお残っているもの。それが、教育である」。

これは、アルバート・アインシュタインの言葉です。ご心配無用。アインシュタインの話をする訳ではありません。私には、アインシュタインがどれほど偉大な物理学者であるか想像がつきません。

さて、エリック・クラプトンです。クラプトンは、「自分が編み出したギターフレーズは大嫌いだ。好きなフレーズは、今でもギターを練習していた頃に真似した黒人ブルースギタリストのものだよ」と言いました。私が十代の頃、ミュージックライフという雑誌の記事で読んだのですが、「クラプトンって、けっこう正直で性格のいい奴かもしれない」と思いました。

クラプトンは、ジミー・ペイジやジェフ・ベックと並び称される三大ロック・ギタリストです。ただ、オリジナリティというと、どうでしょうか?ペイジはクラプトンほど上手に弾けないかも知れませんが、印象に残るフレーズを発明する天才です。ベックは、これまた抜群に上手い。エレキギターをギターではないかのように弾きこなします。

閑話休題

日本の教育問題の一つは、オリジナリティを重視しないことだと思います。インターネットが普及して、「調べられることを、いちいち覚えておく必要などない」情況になりました。恐らく、インターネットが一般的になる前からの真理だったのですね。因みに、これもアインシュタインの言葉です。偉大ですねぇ。

今まさに、オリジナリティを重視した教育に転換する必要があるでしょう。子どもは、自分で試練にぶち当たり、悩み考えて気付いていくしかない。つまり、自分で自分を教えて成長するとともに、オリジナリティを出し賢くなって行くのだろうと思います。

学校は基礎的な知識に集中すればいい。余計なこと、例えば、中立でない世界観や狭小な人生観を義務教育の子どもたちに吹き込んでもらっては、この国の将来はムチャクチャになってしまいます。

私自身はどうか?

私は、学校で学んだことも、人生で得た教訓も、片っ端から忘却して歳を重ねているような気がします。ところで、最近のクラプトンはオリジナリティ溢れるフレーズを弾くようになったでしょうか?(オリジナリティがなくてもクラプトンは好きですよ)。

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2010年3月2日火曜日

北教組事件を考えてみる

日本は、一応のところ民主主義でしょうが、権力というものは、相互牽制がきかない場合、多少とも全体主義化や中央集権への道を進むのでしょうね。だから、リーダーには倫理観念が大事である訳です。

先日、「文部科学省を事業仕訳したらどうか」と書きました。文部科学省がなくなれば、日教組がしめしめとそれに取って代わろうとするでしょうか。これでは改悪です。文部科学省も日教組も同時になくして、最小行政単位である市町村、東京都であれば区に教育を委ねるべきだと思います。

政権政党の副幹事長が、「教育の政治的中立ありえぬ」と言ったそうですが、これは言語道断な話で、もっともっと大騒ぎになって然るべきことなのです。何故かと言うと、教育が権力構造を持ち、政治的圧力でもって国民をコントロールすることが可能になるからです。寺小屋をつくり、藩の子弟を教育していた江戸時代よりもレベルを下げる話です。

お金のために魂を売ったマスメディアによる洗脳も恐ろしいですが、教育は「国家百年の計」ですから蔑ろにするべからずですね。

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2010年3月1日月曜日

3月は自殺防止月間

3月は自殺防止月間だそうです。日本は、この10年間毎年3万人以上の人が自殺しています。毎日90人前後の人が、この狭い日本列島で自ら命を絶っているわけです。すごい数ですね。宗教心だけの問題だとは思えません。政府による自殺対策のホームページまであります。10万人あたりの自殺者数の国別比較を見ると、日本は第4位。10位以内には西欧諸国は見あたらず、ほとんどがロシアや旧ソ連の東欧の国々です(韓国が9位に入っています。2009年統計より)。

以前、「自尊心を育むのがアメリカの義務教育の根幹である」と申し上げました。自尊心を植え付けないと、生存競争が極めて激しいアメリカ社会では持ちこたえられないからです。

下のスライドをご参照ください(クリックすると大きくなります)。

試練は、自分から飛び込む場合もあれば、無理矢理降ってくる場合もあります。うまく乗り切れる場合もあれば、うまく行かなくて失敗に終わることもあります。しかし、ここで重要なことは、何とか試練に対応して、試練を乗り切ることなのです。そして、乗り切ったことによって、それらが教訓となり自尊心の形成につながって行きます。いつも一人で乗り切る必要はない。必要だと思えば、友人や先輩、そして家族のサポートを受ければいいのです。

日本と比較して、あまり優しくないアメリカや中国で働いてきた私は日本人としては随分と意地悪なオジサンになっているのかも知れません。しかし、日本の若い人たちに苦言を呈するとなれば、「試練は避けちゃだめだ!」になります。試練を避けていては、いつまでたっても大人になれない。

私としては、アメリカ人や中国人よりも、もっともっと狡猾な日本の若者の出現に期待します。




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