2009年12月31日木曜日
「時間」に関すること
一年の締め括りになるかどうか分かりませんが、「時間」に関することです。
人生には、「緊急でないけど重要なこと」はいっぱいあって、それらの積み重ねが、大人になって(年を取って)ボディブローのように効いてくるように感じます。例えば、読書とか家族や友だちとの会話とか、長年継続可能な趣味の類です。
人生の中で、子供である期間は「緊急でないけど重要なこと」の積み重ねの時ではないかと思います。
エリック・ホッファーの「情熱的な精神状態」から。
「ものごとを考えぬくには、閑暇(レジャー)がいる。成熟するにもレジャーがいる。いそいでいる人たちは、考えることも成長することも、堕落することもできない。かれらは、永遠に愚かで幼稚なままである」(It needs leisure to think things out; it needs leisure to mature. People in a hurry cannot think, cannot grow, nor can they decay. They are preserved in a state of perpetual puerility )。
良いお年を!
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2009年12月30日水曜日
ibg とは?
我々の「Vision」は以下の通りです。
今後、益々グローバル時代に対応できる人材が不足するでしょう。ibg は世界で不足するグローバル時代に対応できる人材をマーケットに供給しようと考えています(人材派遣の会社ではありません、念のため)。
グローバル対応の人材不足は、アメリカ、ヨーロッパ、どこも同じです。しかし、日本がアメリカ、ヨーロッパ先進国の後塵を拝していることは疑う余地がありません。
これまでは、先輩に学び上司の意向に副った仕事のやり方でよかった。しかし、これから必要とされるのは、全体を見渡し方向性を見据えた上で、自分は何ができ何をすべきかを相手の目線で考えることです。
そしてもう1つ。従来のやり方では、一つの問題を解決するのに、一つの分野にだけ通じていれば大抵の場合は何とかなりました。しかし、世の中はより複雑に、より高度に変化しており、問題はあらゆる分野に渡っています。それらの問題を解決するには、自分の専門分野のみならず、人文科学と自然科学の融合、知識と実践を交互に行き来する経験の積み重ね、それらを通じて魅力的な人格形成が必要となると思います。
ibg のサービスは、社会が今後益々必要とする人材によって提供されます:
* 文化の違いを超えて対話や議論ができる人
* 自分で考えて問題を解決する能力がある人
* 専門性に加え一般教養を備えた情熱的な人
ibg のサービスは、顧客の個々人によって異なる要求を、高度なレベルでセンス(感知)して、それに素早くレスポンド(対応)できる人材によって提供されます。ibg のメンバーは、会社の規模や知名度に左右されることなく、誇りをもって、やりがいのある仕事をしながら充実した生活を送る姿勢を貫きます。
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2009年12月29日火曜日
智徳の弁
沖仲仕(港湾労働者)の哲学者 エリック・ホッファーを知れば知るほど、インテレクトとモラルは、「学校教育」ではなく「読書」によって鍛えられると感じます。子供たちの頭の中の言語の空間が広がらないと、インテレクトやモラルも大きくならないでしょう。
本を読んで語彙や表現力を増やすのは大事なことです。
インテレクトとモラルは、子供たちの要求に合わせて形成されていくのでしょう。親や学校の先生は、子供たちの要求が高まるように働きかける必要があるのだと思います。
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2009年12月28日月曜日
Golden Mean (中庸)
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「理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要である」とギリシャの哲学者であるアリストテレスが言ったそうです。英語で言う Golden Mean が中庸のことです。
日本でのアサーティブ(Assertive)という言葉の使い方が気になっていました。アメリカの小学校では、子どもたちに「Be Assertive!」とよく言います。これは、人の話をよく聞きなさい、自分の意見を持って、自分の意見を表明しなさいという意味です。アメリカの社会は、人の話を無視して攻撃的に自分の主張をするアグレッシブ(Aggressive)な人が多いから、小さい時から「Be Assertive!」と教育するのでしょうね。
一方、日本人は世界に出て行くとリザーブド(Reserved)です。人の話は頷きながら聞きますが、人の目を気にして自分の意見を言わないので、何を考えているのか分からないという訳です。
中国人(大陸の中国人)はどうでしょうか?よく似た外見をしているので、日本人は一方的に親近感を抱いているようですが、アメリカ人よりも更にアグレッシブ(Aggressive)のような気がします。
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2009年12月26日土曜日
2009年12月25日金曜日
2009年12月24日木曜日
岡倉天心
8月末に帰国して、岡倉天心ゆかりの五浦海岸に行ってきました。
岡倉天心は「亜細亜は一つなり」と言った人ですが、日本美術や東洋美術のすばらしさを堂々と英語で西欧諸国に訴えた芸術家でした。明治36年にボストン美術館に顧問として迎えられています。インキュベーター(人材育成者)であり、プロデューサーである天心は私の尊敬する明治の偉人の一人です。
茨城県の北端に位置する五浦(いづら)海岸は、アメリカ、ヨーロッパ、インド、中国、朝鮮半島を旅行した岡倉天心が、世界中で一番美しい所だと言い、自宅を建て六角堂(上の写真)を作って晩年を過ごした場所です。今は、立派な天心美術館(茨城県立)になっています。六角堂は、ニューイングランド地方にあるガゼボの和風版だと思いました。
(ウィキペディアより岡倉天心の逸話)
明治36年(1903年)、天心は米国ボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田らの弟子を伴って渡米。羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に1人の若い米国人から冷やかし半分の声をかけられた。
「おまえたちは何ニーズ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?」。そう言われた天心は「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」と流暢な英語で言い返した。
<原文>
"What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?". "We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"
天心はどういう育て方をされたのか?
天心は、1863年の幕末期に外国人向け商店街の中心地の横浜で生まれました。天心の父親は、越前藩の藩士でありながら、越前の商品を扱う商社石川屋を営んでいて、天心は子供の頃から英語が飛び交う店の中で育ったそうです。父親の「これからは英語力だ」という考えから、小さい時から横浜の英語塾に預けられたそうです。その後、8歳の時に神奈川の長延寺に預けられ、和尚によって「論語」、「孟子」など漢学を叩き込まれました。乳母が福井藩士橋本左内の遠縁にあたる人だったそうで、いつも橋本左内のことを語って聞かせていたそうです。天心の日本人としてのアイデンティティはこういったところで形成されたのでしょうね。
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2009年12月22日火曜日
コミュニケーション
コミュニケーションの基本は「明瞭さ(CLARITY)」です。そして、自分の意思を伝える手段として「話す事」と「書く事」があります。そして、それらは日本語であったり外国語であったりします。ところが、日本の社会では意思をはっきり伝えることは、直截的で嫌われる傾向にあります。つまり、「曖昧さ」が美徳とされるのです。だから、日本の環境で育ったわれわれ日本人にとって、外国語でコミュニケーションするのは、想像を絶するほど難しいことなのです。
日本のように暗黙の了解が成り立つことは稀です。「帰国子女が日本語でコミュニケーションをする場合、意識的に『明瞭』に言わないように気を付けている」と聞いたことがあります。アメリカ人の感覚で、明瞭に意思表示をすると、日本では嫌われるからだそうです。
書くことの難しさ
アメリカではメールオーダーが一般的です。そして、ご想像通りトラブルも多い。アメリカ駐在の日本人は「アメリカはいいかげんだ!」と頭に来ます。ところが、アメリカ人はこういったトラブルがあると、まめにクレームのレターを書いて対応します。相手の間違いが、初めてのものなのか、2回目なのか、また、間違いの程度によってクレーム・レターの意地悪度(NASTY度)を変えるのです。実に見事なものです。
とにかく、英語を書くことは難しい。効果的なビジネス・レターが書けないために、これまでどれ程恥ずかしい思いをしたか知れません。私の英文にはあっちこっちに教養と知性のなさが現れます。これは、中国語でも同じなのです。私は中国語の会話は何とかなりますが、中国語でもちゃんとした文章が書けません。しかし、ちゃんとした文章が書けないと言うことは、結局ちゃんとした会話もしていないことではないでしょうか?
これは何も外国語だからでなく日本語にも言えることです。考えが論理的にまとまっていないと、ちゃんとした文章は書けません。レターを書くことは、生活やビジネスの基本なのです。そのあとの知性と教養は人それぞれだから、立派な人は、それに応じた文章を書きます。私は私なりのものになってしまうのです。
演説の法を勧むるの説 ~ 「学問のすすめ」 十二編
アメリカのビジネスの世界では、みんなが役者であるかのように振る舞います。中身はたいした内容でない場合でも、ドラマの中の主人公のように堂々とやってのけます。ちょっと油断していると、どんな素晴らしいことを言っているのかと錯覚するのです。これらは幼稚園の頃からSHOW&TELLなどで鍛えられた成果なのです。
会話の基本は「アイ・コンタクト」です。つまり、「目は口ほどにものを言う」のです。相手の「目ん玉」を見つめながら、「優しい眼差し」と「恐い眼差し」を使い分けるくらいでないと、なかなかアメリカ人とは議論できません。さらに、相手を説得しなければならない場合は特に冷静な態度で臨むことが必要です。
SHOW&TELL(ショーアンドテル); アメリカで子供が自分の自慢したいもの、見せたい物を幼稚園や小学校に持参して、みんなの前で発表すること。毎日のようにやっています。プレゼンテーションとファシリテーションの第一歩です。
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2009年12月21日月曜日
私の個人主義
また、「イニシアチブ」や「リーダーシップ」も、はっきりしたビジョンがないと、個人の利益誘導ととられても仕方ありません。「個人が勝手なことをやりみんなの和を乱す」と考えられているのかも知れませんね。
日本人は「自由でいることの責任の重さ」を十分理解していて「自由じゃないこと」を選んでいるのかもしれません。ひょっとしたら、これらを逆手に取り案外うまいことやっているんじゃないかと思うこともあります。
夏目漱石の「私の個人主義」は、漱石がこれから社会に出ていく学習院の学生に対して大正三年に行った講演です。明治の文豪は本当に偉大ですね。
漱石はスピイチの中で「ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値もないし、権力を使う価値もないし、また金力を使う価値もない」と言っています。「自由とその背後にある義務という観念が必要なこと」にも言及しています。漱石がこれから社会に出ていく学習院の学生に対し語ったこれらのことは、そっくりそのまま現代の日本人に対しても十分通用するのではないでしょうか?
漱石は大正時代に「日本の国の変化の中で大切なのは、変化に対応できる個人主義だ」と言っています。今の日本は、漱石の時代とは違って、国家と自分の関係を考えるにはあまりにも平和すぎるのかも知れません。
自由とは責任を伴うものです。日本人は、自分から自由を捨てることで責任も放棄してしまったのでしょうか?お互いの自由を尊重しあい、ルール至上主義でなく、社会の基本をもう一度考えることから始めたらと思います。
福沢諭吉の「学問のすすめ」の最終編である十七編は、人望に関することです。諭吉は「人間交際」が大事で、人望を得るには実学を含む様々な修養を積めと言っているかのようです。私は、夏目漱石が言う自由であることに必要な倫理観も、人との関わりを通して身につくものだと思います。もっと人や社会と関わりを持ち、そうした経験から自然と倫理観を持てるようになれるといいですね。
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2009年12月20日日曜日
動物農場(アニマル・ファーム)
物語は、豚のメージャーが動物たち自身による自主独立の理想的な農場のビジョンを語ることから始まります。メージャーの死後,残された動物たちが反乱を起こして人間たちを追放し、理想の「動物農場」が誕生したかに思われました。
このとき、リーダーシップをとったのが,繁殖用の豚のスノーボールとナポレオンです。さらにこれに従うのが、それ以外の食肉用の豚とメスの豚たち。彼らは,全動物たちのうちで、一番知能がすぐれていることになっていて、それ以外の馬、牛、鶏、羊たちは,その経験や知識の足りなさから、結局、豚たちの一方的な指導に従わざるをえないのです。
その後、人間たちが農場奪回にやって来ます。しかし、スノーボールたちの作戦が成功して、人間たちを撃退します。こうして、動物たちは革命の勝利の喜びにわき、自分たちの農場の誕生を祝います。
やがて、スノーボールとナポレオンの権力闘争が始まったのです。犬たちを軍隊に仕立てたナポレオンによって、スノーボールは追放されてしまいます。これまでにも、豚たちの特権階級化の様相が見えはじめていたのですが、これをきっかけに、事態はますますナポレオン独裁体制に向かって進んでいくのです。
この動きにもっとも貢献したのがスクゥイーラーという名の宣伝係でした。言葉巧みに、一般の動物たちを操る彼の手腕により、他の動物たちはナポレオンの意向にしたがわざるをえません。
ボクサーという勤勉で忠実な馬は、革命のために献身的な努力をしてきたのですが、この事情を飲み込めず、「ぼくはもっと働くぞ、ナポレオンは正しいぞ」というモットーのもとに、ただただ働きつづけ、悲惨な最期を遂げて死んでしまいます。
動物たちが自分たちのために作った「七戒」という憲法のような法律も、豚の手によって都合良く書きかえられ、理想の「動物農場」は以前の「荘園農場」にも増した豚一群の独裁的な農場に変わったところで物語はおしまいです。
つまり、この小説は「全体主義」がどのように誕生するか、そのプロセスを明確に教えてくれています。
ボクサーと言う馬のアプローチはいつも同じです。それは「もっと頑張って働くよ」です。ボクサーの素直な勤勉さは、みんなが現実を冷静に判断することを阻害します。しかし、実は彼が働けば働くほどみんなの仕事が増えるのです。農場を経営する豚たちは、実は、自らの利益のためだけにボクサーを操っていた。ボクサーの勤勉さは、豚たちの意図を隠し、豚たちのねらいを他の動物から見えにくくする働きをしたのです。
去年の年末は日比谷のテント村が話題になっていました。ニューヨークから見ていて非常に奇異に感じていました。「蟹工船」も流行っているとのことでした。映画にもなったとか。
日本の若者には「蟹工船」ではなく、ジョージ・オーウェルの「動物農場」や「1984」を読んで欲しいと思います。「動物農場」は短編なので、小学生にもお勧めの一冊です。
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2009年12月19日土曜日
餃子を作ろう
中国語(北京語)で「何か痛快なこと」が起こった時「蓋了帽兒!(かいら・まうぉー)」と言います。日本語では「やったー!(ガッツポーズ)」でしょうか。4半世紀前、北京の若者の間で流行っていた言葉です。直訳すると「帽子をかぶせる」と言う意味ですが、転じてバスケットボールのダンク・シュートのことを指しています。
中国で仕事をしていた80年代、北京は木犀地にある中国国家統計局の小楊(シャオヤーン)に教えてもらったのです。小楊は「青春の門」でデビューした頃の「大竹しのぶ」にどことなく似ていたので、「北京の大竹しのぶ」と仲間内で呼んでいました。デビュー当時の大竹しのぶと言われても皆さんはご存じないですよね?
さて、来年は「蓋了帽兒!(かいら・まうぉー)」と叫ぶようなことが起こるでしょうか?
餃子は中国東北地方の主食です。日本では薄い皮の餃子が美味しい餃子の代表のように思われていますが、中国では皮を食べます。皮は「面(ミエン)」と呼ばれ、英語で言う「DOUGH(ドーナツのドウ)」のことです。イタリアではこれはピザの台になります。
大きなボールに粉を入れて、ぬるま湯を少しずつ加えお箸でかき混ぜます。粉がボールの中でヒマワリの種のような状態になったら手でこね始めます。表面が滑らかになって、耳たぶくらいの柔らかさになるまでひたすらこねるのです。こねる間はワインを片手に人生を考えます。人生を考える時間は20~30分ですかね。こねた後は、ボールに濡れ布巾をかけ30分から1時間ねかせます。
中身は、豚・牛のひき肉にねぎ、ショウガ、椎茸のみじん切りを入れます。エビは細かくきざんだ後包丁の腹ですり潰す。白菜は包む直前に入れるから今は入れません。肉の中に材料を入れたら卵の白身をいれ、醤油とサラダオイルをドボドボと大量に入れます。小さじ大さじ何杯なんてもんじゃなくて、ドボドボっと躊躇なく入れるのです。ごま油もついでに入れます。
お箸で同一方向にかき混ぜます。右回りだったらずーっと右。左だったらずーっと左。ここでも人生を考えながら(餃子作りには人生を考えるところがあっちこっちにあります)、後戻りせずひたすら同じ方向にかき混ぜます。においをかいでみて、醤油とショウガの香りがしなければ、醤油を再度ドボドボっと加え、ショウガも足します。中国の人達は「味精(ウェイ・チン)」といって化学調味料をやたらぶち込みますが、私は化学調味料は使いません。
さて、中身を皮で包む作業です。これが一番面倒くさい。ボール状にしてねかせておいた「面」をすこしこねて太さ1.5センチくらいの大きなドーナツ状の輪っかを作るのです。そして二個所を切り、同じ長さの二本の棒状にする。そして金太郎アメのように2センチくらいの大きさに切っていく。粉を全体にまぶして手で少し潰してからめん棒で丸くのばしていきます。
白菜は洗わずみじん切りにして塩を全体にふりかけ絞って水分を出し、包む直前に先ほど作った餃子の中身と混ぜ合わせます。これがキーポイントで、水のでる白菜は水で洗わず塩をまぶして水分を絞り出し、包む直前に餃子の中身に混ぜ合わせるのです。
大きな鍋で茹でるわけですが、餃子が鍋の中でくっつかないようにオタマでお湯をかき混ぜ「ウズ」をつくり、鍋の中央の「ウズ」の中心から餃子を一個ずつ入れていきます。餃子ができてくると浮き上がって来ます。沸騰させふきこぼれそうになったら差し水をする。これを2,3回繰り返してプリンプリンでツヤツヤの餃子の出来上がりです。
是非、子供達と一緒に餃子を作ってみて下さい。
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2009年12月18日金曜日
エリック・ホッファー
エリック・ホッファーは、7才の時に視力を失いました。その後、15歳の時に奇跡的に視力を回復します。なぜ突然失明し再び急に目が見えるようになったのかは分からないそうです。またすぐに目が見えなくなると思い、起きている間中は読書をしていたそうです。18歳で天涯孤独となり、ニューヨークからロサンジェルスに渡り、様々な職を転々としました。カリフォルニア各地を転々とした後、サンフランシスコで港湾労働者として働きながら、1951年に処女作「The True Believer」を発表し著作活動を始めます。
エリック・ホッファーは正規の学校教育を全く受けていません。しかし、64年から72年まではカリフォルニア大学バークレーで政治学を教えています。働きながら読書と思索を続け、独自の哲学を築き上げた結果です。
エリック・ホッファーは、彼の自伝の中で「後年、思索し、ものを書き始めたとき気がついてみると、私は相変わらず分類をしていたということだ。事実と印象を区別し、照らし合わせていたのである」と言っています。
今の世の中を見てみると、客観的な情報の入手は益々難しくなっています。
今年の夏に帰国してから非常に気になっているのは、日本のテレビのアナウンサーが主観的なことを言っているのか客観的な事実を説明しているのか、極めてあやふやであることです。公共の電波のアナウンサーが自分の考えをニュースの中で勝手に喋ってしまうのは困ったことです。せめて、ニュースの事実と自分の印象とを区別して欲しいものだと思います。
子供の頃から「客観」と「主観」の区別をつけるように注意することは重要だと思います。これは、コンサルタントのスキルとしても重要なことです。大人になってからこのスキルを身につけるのは、なかなか難しいものです。歳をとればとるほど難しい。独善的になるからですね。また、情報のソースがどこなのかを明らかにする習慣も大切なことだと思います。
エリック・ホッファーは、「有意義な人生とは学習する人生のことです」と言っています。港湾労働者をしながら、読書をし、勉強し、文章を書く日課を送った。読んだ本の中から気に入った言葉やアイデアを見つけては書き留めた。こういった蓄積によって、批評や、彼自身の思考を展開することができるようになったそうです。つまり、福沢諭吉が「学問のすすめ」で言う「取捨を断ずる」訓練ができていたのですね。
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2009年12月17日木曜日
忠誠の宣誓(The Pledge of Allegiance)
「なんだ、なんだ、一体どうしたんだ?」。
それは「The Pledge of Allegiance(忠誠の宣誓)」でした。
I pledge Allegiance to the flag of the United State of America and to the Republic for which it stands, one nation under God, indivisible with liberty and justice for all
(私はアメリカ合衆国の国旗に忠誠を誓い、国に対し忠誠を誓う、神のもと一つの国であり、すべての人にとって自由と正義を与え、分かつことの出来ないものである)。
アメリカ人は、子供の時に神の名の下にアメリカという祖国に忠誠を誓います。学校で子供たちは、何かあるたびにこの「The Pledge of Allegiance(忠誠の宣誓)」を宣誓させられます。子供たちは、特別意識することもなく、ほとんどみんな自分の国アメリカが素晴らしい国であると思いはじめ、国歌「スター・スパングルド・バナー」を斉唱するのです。
私の憧れる人の中に、ジミー・ヘンドリックスというロック・ギタリストがいます。いい年をしたオジサンが、いまだにジミヘンの「リトル・ウイング」にしびれているのは滑稽ですね、、、。有名なロック・ギタリストは、だいたいみな不良です。彼は、不良のロック・ギタリストらしく、若くして麻薬で死んでしまいました。1969年、ロックの歴史的イベントであった「ウッドストック」で「スター・スパングルド・バナー」を演奏しました。マーシャルのアンプとのフィードバックをきかせたギターソロは、45万人の観衆を魅了したのです。読者の方々はご存じないですよね?
ジミヘンも子供の頃は「The Pledge of Allegiance(忠誠の宣誓)」を宣誓したでしょうし、麻薬で死んでしまうまで祖国アメリカを愛したのだろうと思います。
日本では、初等中等教育に関する認識の甘さがあるように思えてなりません。高等教育以前の問題が大きいように感じるのです。高等教育以前の問題をもっと考え、ビジョンを打ち出し、具体的な解決策を、長期的、短期的に示すべきだと思います。改善する施策は考えられているのでしょうか?ブログと言えども、もう少し現状を精査してから発言すべきですね。
アメリカの学校では、授業を始める前に「The Pledge of Allegiance(忠誠の宣誓)」を行います。生徒は胸に右手を当てて唱和するのです。子供達は物心つくころから「The Pledge of Allegiance(忠誠の宣誓)」を国旗に向かい唱和することで、アメリカと言う祖国を愛するように教えられます。そして、そのアメリカは、自由で豊かで美しいと「America the Beautiful」を歌います。この歌は有名なので、ご存じの方は多いのではないでしょうか?
日本では「自由で豊かで美しい日本」と子供に言っても、子供の方が笑ってしまうかもしれませんね。大人たちが、日本は魅力的な国だとは思っていないからかも知れません。教育の専門家たちは、様々な議論をした後に、高等教育の重要性に焦点をあてているようにも感じるのですが、理想論ではなく、具体的にまずできることからやった方がいいのではないでしょうか?
その一つが「The Pledge of Allegiance(忠誠の宣誓)」にかわるもので、国や国旗などと言うものでなくても、親と教師と生徒が皆で話し合い、合意したものに対し、忠誠を誓って責任を明確化するのは、すぐ実行できる一つの方法だと思います。
何?現実はそんなに簡単じゃないって?
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2009年12月16日水曜日
学問のすすめ (2)
情報氾濫のインターネット時代には、一層この取捨選択の能力が必要になると思います。何を信じて何を疑うのか。子供たちにはTV を見せないことが先ずは第一歩かも知れません(大人も極力見ないほうがいい)。
福沢諭吉は言及していませんが、取捨選択する以前の問題があります。自分自身のVISION(将来の展望)を持たないと取捨選択するための情報は自分の所に集まって来ません。幕末を体験した明治初期の福沢諭吉さんにとっては、VISIONを持たないなんて考えられなかったことなのでしょうね。
例えば「子供の教育に関心があって何とかしたい」と常日頃から思っていたら、「子供の教育」に関する情報が自然と集まってくるものです。これは問題意識、あるいは危機感のなせるワザかも知れません。何の問題意識もなければ氾濫する情報の中に身を任せるのみです。
「事物の軽々信ずべからざること果たして是ならば、またこれを軽々疑うべからず。この信疑の際につき必ず取捨の明なかるべからず。蓋(けだ)し学問の要は、この明智を明らかにするに在るものならん」。
このセンテンスだけでも日本の現行教育ってこれでいいのだろうかと思ってしまいます。親が子供に日頃から「自分が納得するまで質問しなさいよ」と言っていたら、取捨を断ずることができる子供に育つのではないでしょうか?今の日本だと、自分が納得するまで質問したら受験戦争に勝てないですか?それとも、先生に嫌われてしまいますか?
15編の最後に「我々学者が勉強しないといけない」と檄を飛ばしています。恐らく慶応の研究者や先生に対して言っているのでしょう(巷の解説書で確認して下さい)。私にはこの部分は、「子供をもつ親たちはしっかりせねばならんよ」と聞こえます。
2009年12月15日火曜日
学問のすすめ (1)
「学問のすすめ」は17編より成っています。諭吉は「小学の教授本」と言っています。小学とは小学生のことです。ただし、4編と5編は学者向けに論じたようです(本文中に書いてあります)。
啓蒙思想家である諭吉は立派な人物ですね。今の日本の教育にもコンサルタントの世界にも「学問のすすめ」は通じる部分がいっぱいあります。真理をついているからでしょうね。
10年以上前に「学問のすすめ」を読んだ時、それ程強く思わなかったことでも、今読むと違った印象を受けます。面白いものですねぇ。自分も歳を重ねるうちに、右や左、上や下に変化しているということでしょう。勿論、世の中も。
初編
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という誰でも知っている部分です。しかし、本当の意味を知っている人は割と少ないのではないでしょうか?
福沢諭吉の問いかけは「天は人の上に、、、と言われるが、世の中にはなぜ金持ちや貧乏人ができ、賢い人がいたり愚かな人がいるのでしょうか」です。「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と善人と悪人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という」。
「学ばないとちゃんとした大人にならないよ。しっかり学ぶのはあんたたち小学生の義務であり責任なのよ」と説明しています。この初編の冒頭の部分は、全体の枕になる部分です。一般には「天は人の上に、、、」が一人歩きして平等について語っているような印象がありますが、そうではありません。「学問をしないとロクな大人にならないよ、日本はとんでもない国になるよ」という警告なのです。
初編ではもう一ついいことを言っています。「自由」と「我儘」の違いです。「ただ自由自在とのみ唱えて分限を知らざれば我が儘放蕩に陥ること多し。即ちその分限とは、天の道理に基づき人の情に従い、他人の妨げをなさずして我一身の自由を達することなり。自由と我儘の界(さかい)は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり」。
英語で言えばFREEDOM(自由)とLICENSE(我儘:勝手気ままな自由)の違いです。日本ではFREEDOMとLICENSE の区別が曖昧で、日本の自由は英語で言うLICENSEのような感じがします。LICENSEという言葉は「学問のすすめ」には出てきませんが。
2009年12月14日月曜日
モチベーションについて
日本の社会や学校にはモチベーションが上がる要素が足りなのではないでしょうか?
先ずは、インセンティブとモチベーションについて私の理解からお話します。日本では、かなり怪しい理解のまま使われているような気がします。
モチベーションは、個々人から出てくる「やる気」のことです。「どうも今日はモチベーションが上がらない」と使われます。「今日はやる気がでない」と言うことです。
一方、インセンティブは、モチベーションが生じるための励みとなるものです。「ご褒美」とも言えます。馬が走るための「ニンジン」です。
また「アメリカでは、、、」かと思われるかも知れませんが、少し聞いて下さい。
アメリカの子供たちのモチベーションって何でしょうか?
アメリカの社会は日本のように平均化されていません。子供たちは、普段からホームレスとか麻薬やアルコール中毒者を身近に見ています。そして、成功して大きな家に住んで、カッコイイ車を何台も持っている大金持ちも見ています。ホームレスやジャンキーになるよりも、成功していい暮らしがしたいと思います。マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスティーブ・ジョブスはスーパー・ヒーローであり、子供たちのロールモデルです。
これらが、アメリカの子供たちのモチベーションになっているのです。
日本は、良いロールモデルも悪いロールモデルもない(少ない)。みんな同じだからです。極端な貧乏もいなければ、アメリカのような大金持ちもいません。いくらお金がないと言っても、コンビニに行って何らかのものは買えます。
平均化された日本の社会は優しい社会だと思いますが、あまりにも過度に平均化を行うと、子供たちのモチベーションを上げることはできないのではないでしょうか?
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2009年12月13日日曜日
2009年12月11日金曜日
冬なのにサマーキャンプの話を少し
アメリカの子供たちは長い夏休みの間、4週間から6週間をサマー・キャンプで過ごします。小学校低学年のうちは自宅から通う日帰りキャンプ(DAY CAMP)ですが、3、4年生頃からスリープアウェイ(SLEEP AWAY)キャンプと言って親元を離れます。
サマー・キャンプは、主催する団体、内容、期間、費用など様々なものがあります。町、村、そしてYMCA などが行う低料金のキャンプもありますが、スリープアウェイのキャンプは大抵が個人経営で、キャンプ運営を家業として代々100 年も続いているところもあるくらいです。イースター(4月)が終わる頃からキャンプの申し込みが始まり、人気のあるニューヨーク郊外のキャンプ場はあっという間にいっぱいになってしまいます。
サマー・キャンプでは全く勉強をしません。
共同生活をしながら朝から晩まで水泳やらテニスに明け暮れるのです。水上スキー、マウンテンバイク、ゴーカート、アーチェリー、コンピュータなど子供達にとってはかなり魅力的なキャンプ・プログラムが揃っています。ビジネスだから人気のないキャンプは経営が成り立たないからです。どのキャンプ場も子供たち(つまり顧客)集めのために余念がないのです。
キャンプ場は海や山や湖の自然に恵まれたところに位置します。このあたりがアメリカの有利な点で、ニューヨークでさえ1,2時間車で走ればキャンプ場を設置する自然がいたるところにあります。
森と湖の中にあるキャンプ場にはバンガロー風のキャビンが建てられています。6人から8人が一つのグループになり同じキャビンで寝泊まりします。大抵のキャンプ場にキャビンは10~20ほどあり総勢100~200人ほどが共同生活をすることになります。キャビンはお粗末な山小屋で、トイレやシャワーなど簡易的なもので、自宅に比べると雲泥の差、見た瞬間は抵抗がありますが、これも勉強の内、慣れるしかないのです。
キャンプ・カウンセラーは夏の間の高校生や大学生のアルバイトで、一つのキャビンに普通2人割当てられます。カウンセラーの中にはイギリスやオーストラリアから毎年夏にやってくる連中もいます。
勉強もしないキャンプに長い夏の間子供たちを入れる意味は十分にあると思います。それは、「親離れ」と「子離れ」です。
日本だと「受験のための集中夏期講習キャンプ」なんてものはありそうですが、小学校高学年や中学生が夏の間、勉強を一切やらないキャンプに1ヶ月も2ヶ月も行くことは考えられないでしょう(そうですよね?)。
アメリカのサマー・キャンプでは学校の勉強はしませんが、共同生活を通じて社会勉強を行うわけです。サマー・キャンプのキャビン内での人間関係やカウンセラーとの会話を通じて社会生活の基礎を作り自立心を育てていきます。
家族に会ったり、電話をかけたりするのは4週間のキャンプなら中間に一回許されているだけでです。これは、親にとってもツライことです。キャンプ初日は子供との別れが辛く涙する親たちもいます。親たちにとってもサマー・キャンプは試練の場なのである。
しかし、何と言ってもサマー・キャンプの特色は様々なスポーツです!
湖で泳いだりテニスをしたり、自然の中で真っ黒になりながら基礎体力をつけていきます。 湖はプールと違って夏でも水は冷たい。当然、足も立たない。
「夏休みは頭を空っぽにするためにあるんだよ。夏の間に頭を空っぽにするから学校が始まるといっぱい頭に入るんじゃない。だから夏休みに勉強なんかしちゃだめなんだよ」。
これは、うちの息子の当時の(十数年前?)コメントです。なるほど、携帯電話の充電と同じ理屈です。電池を使いきらないうちに充電を始めると、充電を繰り返している内にだんだんと電池の長持ちする時間が短くなってしまいます。
LABOR DAY WEEKEND が終りアメリカの夏が終ります。
「BACK TO SCHOOL SALE(新学期のための学校用品のセール)」が始まり、子供たちがいっぱいの夏の思い出と共に随分と逞しくなって学校にもどって行くのです。
2009年12月10日木曜日
Gifted & Talented (日本の教育について感じること)
平等には「機会の平等」と「結果の平等」があります。日本の社会や教育の場でも問題と思うのは、この2つの平等を混同していることです。
平等主義は子供の小さい時はいいかも知れませんが、子供の能力に差が出てくる小学校高学年から中学生になる頃にはマイナス面の方が多くなるのではないでしょうか?
優秀な子供の知的好奇心を満足してあげることが出来ないと、潜在能力のある子供たちはやる気を失ってしまいます。やはり、適正な能力別クラス編成(この言葉は日本ではタブーかも知れませんが、、、)を実施し、能力のある子供が一層やる気を出せる環境を作ってあげる必要があると思うのです。
恐らく、日本では「選ばれなかった子供は可哀想じゃないか」と言う意見が出てくるでしょう。しかし、能力は一つのエリアに限られる訳ではありません。
絵を画くこと、歌を歌うこと、走ること、泳ぐこと、あらゆる分野の能力が考えられます。算数でアドバンスなクラスに入ることができなくても、活躍の場はいっぱいあるのです。大事なことは、よく子供を見て、子供とコミュニケーションをして、一人一人の子供の良さを引き出し、更に独立心を養う手助けをしてあげることだろうと思います。
「Gifted & Talented」 の Gifted は天性の才能のことです。では、なぜTalented がくっつくかと言うと、たとえ Gifted であっても努力して伸ばさないと、せっかく備わった天性の才能は無くなっていくと言うことです。Talented は、向上心をもって絶えず努力をしている優秀な人のことです。
2009年12月9日水曜日
なぜ子供教育プログラムなのか?
経済のグローバル化の進行と共に、国際社会の人材のニーズが変わり始めて10年以上になります。求める人材に対する要求もエスカレートし、就職を控えた若者も、これから育つ子供たちも何を目標に頑張ったらいいのか、それを支える親の方も迷いでいっぱいでしょう。
社会の変化はスピードを増し、より複雑になっています。日本の受験戦争を勝ち抜き、一流大学で知識を詰め込んだだけでは、グローバルなビジネス環境の中で優位に立てないのです。それは、インターネットの普及により情報は簡単に手に入るようになったからです。知識の有無や情報量だけで、管理職がスタッフをマネージできる時代ではなくなった訳です。
従来のエリートの職位がコモディティ化してきているのです。一方、簡単な仕事はどんどんアウトソースされてしまいます。それもグローバル規模で展開します。
では、どういったスキルが必要とされているのでしょうか?
我々はグローバルなビジネスの世界でコンサルティング・ビジネスに関わり、コンサルタントを養成してきた経験があります。 コンサルタントに必要とされる属性は、極めて当たり前のベーシックなスキルなのです。そこには通常マジックも高度な学問も関係しません。
大人になる前にコンサルタントの属性について教えてあげたら、大人になる前にそれらが身に付くかもしれません。実はこういったことが、グローバルな社会で競争していくために必要な、原理原則的なスキルではないだろうかと考えます。
- 自分で考える力
- 責任ある生き方
- イニシアチブ
- 多様性に対する寛容さ
- チームワーク
- 強靱さ(インテンシティ)
- 向上心
- インテグリティ(倫理観、スキル、野心の3つのバランス)
- 信頼性
このブログでは、現在の日本の子供教育に関して、現役のコンサルタントの視点から様々な意見を提示し議論して行きたいと思っています。
宜しくお願い致します。
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