ある後期高齢の野党政治家が、誕生したばかりの政権批判をぶち上げていました。女性首相が誕生したという歴史的な日であるにもかかわらず、彼のSNSには「反省ゼロ」「国民を馬鹿にしている」「この国は滅びる」と、まるで呪詛のような言葉が並んでいたのです。発言の主は匿名としておこう。だが、永田町を半世紀にわたってさまよい、政党を作っては壊し、また新しい党を立ち上げては分裂させる――そんな“政治ゴロ”と言えば、誰のことかは想像がつくでしょう。
かつて「日本を変える」と叫びながら、結果として「日本政治の信頼」を最も掘り崩した男。彼は今もなお、批判という名の麻薬から抜け出せないで、政治生命の延命を図っている。彼の発言を見ていると、単なる個人批判を超えて、日本社会そのものの構造的な問題が浮かび上がってくる。
つまり、「否定することでしか存在感を保てない人々」があまりにも多い、という現実である。
否定することでしか生きられない人たち
なぜ人は、否定的な言葉を好むのでしょう?
「いや、それは違う」「そんな簡単じゃない」「昔はもっとひどかった」――こうした一言を口にした瞬間、人は何かしら“上に立ったような気分”を味わうのか。
この「否定でマウントを取る癖」は、残念ながら日本社会の至るところに見られます。政治の世界はもちろん、職場の会議でも、家庭の食卓でも同じです。新しい提案や意見が出ると、まず「でもね」と言いたくなる。
日本社会は、いわゆる「ハイコンテクスト文化」です。つまり、直接言葉にせず、空気を読んで伝えることを美徳とする。そのため、直截的な批判は人間関係を壊す“危険物”として扱われてきました。私も若い頃には随分と痛い目にあいました。
ところが近年は、更に「批判的な自分こそ賢い」と勘違いする風潮が蔓延しているように思います。あのベテラン政治家のように、相手の行動を即座に“反省ゼロ”と断じるのは、まさにその典型です。彼にとって大切なのは、「誰が正しいか」ではなく、「自分が上に立っているように見えるか」なのです。
否定の快感は長続きしません。しかし、否定を積み重ねても、何も生まれない。パスカルが言うように、「考える人間こそが尊い」のだとすれば、考えずに否定だけを繰り返す人間は、もはや“葦”ですらないのです。
出る杭を打つ社会
こうした批判を芸として生き延びるタイプの政治家が支持を得るのは、「出る杭を打つ文化」に完璧に適応しているからです。
彼は、目立つ人間を嫌う。
新しいことを始める人を冷笑する。
成功すれば「裏があるに違いない」と囁き、失敗すれば「ほら見たことか」と拍手喝采する。
このメンタリティは、日本社会の組織構造にも深く染みついていると思います。「みんなで一緒に」「和を乱さず」「空気を読む」。この呪文を唱え続けるうちに、私たちはいつしか“違うことを言う勇気”を失い、迷子になる勇気を軽蔑するようになった。
会社では、上司が「自分より優秀な部下」に警戒心を抱く。学校では、「変わった意見」を持つ生徒が浮いてしまう。そして政治では、「体制を批判する者」と「体制を批判しているように見える者」が、都合よく同列に扱われる。
この政治家もまさに後者のタイプです。決して本当の改革者ではない。しかし、改革者の“ふり”をすることには長けている。その姿は、退職後も組織の中で自分の居場所を探し続ける中間管理職のようです。上からの指示と下からの不満の間で生き延びる――そんな構造の中でしか呼吸ができない。
「出る杭は打たれる」社会では、杭を打つ人こそが評価される。
だが、その結果、誰も出ようとしなくなり、山椒魚のように岩屋から出られなくなる。そして社会は、静かに、確実に、退化していくのです。
配慮という名の停滞
否定が支配し、出る杭が打たれる社会では、人々は「波風を立てない」方向へと自然に流れていきます。そこに生まれるのが、過剰な配慮文化です。
「言わなくても分かるだろう」
「角が立たないように」
「誰も傷つかないように」
――結果、誰も本当のことを言わなくなります。そして、時間だけがかかる。
日本の会議は、世界的に見ても“世界一穏やか”だと言われています。誰も反対しない。誰も賛成しない。ただ「検討します」と言いながら、何も決めない。
コンフリクトを議論して成果を最大化するよりも、コンフリクトを避けるのが賢いやり方だとされる。「根回し」「合意形成」「関係者の理解」。それらは本来、民主主義の成熟した手法であるはずでした。しかし日本では、いつしか“責任の所在を曖昧にするための高等技術”へと変質してしまった。
過剰な配慮は、人間関係を守るどころか、むしろ腐らせます。「言わなくても分かるだろう」という沈黙は、やがて「何も分からないまま進む組織」を生み出す。
そして政治家たち、学者先生やコメンテーターの多くは、あまりに幼稚で、あまりに自己中心的です。“議論”がなく、“構想”もない。あるのは、“感情的な否定”と“自分の存在確認”だけのように感じます。
日本人の病理と希望
否定で始まり、出る杭を打ち、配慮の名のもとに沈黙する――。
この三つが絡み合って、日本社会のエネルギーは静かに消耗しているのではないでしょうか。
だが、希望もあります。
若い世代の中には、「正直に言う」「違いを認める」「間違いを恐れない」という新しい空気が少しずつ広がっているように感じます。SNSの世界では、匿名であっても自分の意見を発信する人が増え、海外の文化や価値観にもオープンになっている。
重要なのは、「否定しない」ことではなく、「建設的に否定する」こと。glorious discontent(栄光ある不満)――それは、ただ現状に不満を抱くのではなく、その不満をより良いものを生み出すためのエネルギーに変えるという考え方です。
「出る杭を打たない」ことではなく、「出た杭を支える」文化をつくること。そして、「配慮する」ことではなく、「誠実に伝える」勇気を持つこと。
永田町に巣食う“亡霊”たちが語り続けるうちは、この国の政治は変わらない。だが、彼らの存在は同時に、私たち自身の鏡でもある。なぜなら、“否定の論理”を支えてきたのは、他でもない――この社会の空気だからです。
亡霊を追い払う唯一の方法は、自分たちが変わることです。
批判するだけでなく、考える。
出る杭を打つのではなく、育てる。
そして、配慮ではなく、対話によって関係を築く。
そうして初めて、この国の政治もまた、否定ではなく希望の言葉で語られるようになるでしょう。“亡霊の時代”が終わる日とは、私たち自身が「思考する葦」として再び立ち上がる日なのです。