2025年6月30日月曜日

モスバーガーで迷子になる

久しぶりにモスバーガーへ行ってきました。おそらく5年、いえ、6年ぶりかもしれません。

家人に頼まれて、テリヤキバーガーとオニオンリングを買いに行ったのです。ちょうど銀行にも用事があり、お店は駅の反対側ではありますが、それほど遠回りにもならないので引き受けることにしました。

お店に入ると、まず驚きました。カウンターではなく、ターミナルのような端末が置かれていて、自分で注文し、その場で支払いも済ませる方式になっていました。

私は現金で支払いたかったので、カウンターの中にいた店員の方(おそらく私よりは年下ですが、見た目は立派な高齢者)に「現金で払うにはどうしたらいいですか」と尋ねました。すると、その方はやや高飛車な口調で「キャッシュレスです」とおっしゃいました。

そういう時代なのだと、しぶしぶ受け入れて画面を操作し始めましたが、出てくるのはポイント決済やコード決済ばかり。ようやくクレジットカードの選択肢を見つけて安心したのも束の間、「会員番号を入力してください」と表示されました。

私はモスバーガーの会員ではありません。「会員でない場合はどうしたらいいのでしょうか」と再び尋ねると、店員の方は少々面倒くさそうな顔で、カウンターの上にある小さな三角形の札を指さしながら「そこから番号を一つ取って、それを入力してください」と教えてくれました。

たかだか770円の買い物です。それにしては、やけに手続きが多いと感じました。まるで謎解きゲームでもしているような気分になります。

カード決済であれば、お店側も数パーセントの手数料を取られるはずです。現金でさっと支払う方が店にも優しいのではないかと思います。

特に、私のような年金暮らしの高齢者などは、おだてておけば気を良くして余計なものまで注文するかもしれません。商売とは、そういうものではないでしょうか。

もっとも、「人のぬくもりだとかサービスで差別化して、多少値段が高くても気にしないような人は、そもそもチェーン店などに来るべきではない」という考え方もあるのでしょう。それはそれで、納得できます。

外に出ると、茹だるような暑さが体にまとわりつきました。まだ6月だというのに、真夏のような陽気です。梅雨は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。

私は、現金で物が買えるというのが日本の良さの一つだと思っていました。
もともと外食はあまりしない方なのですが、こうして支払い方法が煩雑になると、ますます足が遠のきそうです。

買って帰ったテリヤキバーガーは、家人が「おいしい、おいしい!」と言って喜んでくれました。それを聞いて、少し報われた気がしたのです。

けれど、次にモスに行くときは——いや、しばらくは、ないかもしれない。

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2025年6月29日日曜日

まだ育ってないのは自分だった ~ 親としての未完成さに気づく瞬間

 一年ぶりに、アメリカ・テネシー州ナッシュビルから息子一家が一時帰国しました。

息子はもうすぐ40歳。アメリカで弁護士として働いており、妻は大学で英語を教えたり、文章を書いたりと文筆の仕事をしています。共働きで、二人の子どもを育てながら、物価の高騰や治安の不安、広がる経済格差の中で、なんとか日々を乗り切っているようです。

今回は七五三のお祝いもかねての帰国で、吉祥寺の写真スタジオで撮影をしました。子どもたちは着替えに少し時間がかかったり、撮影も長丁場になりましたが、案外楽しそうにしていて、カメラの前で笑ってくれるその姿に、こちらまで自然と笑みがこぼれました。

ただ、今回の再会が手放しの幸せばかりかというと、少し違っていました。自分自身の体調の不安もありましたし、ふとした瞬間に、心の中に小さな苛立ちや不寛容な気持ちが顔を出してしまう場面もあって、自分自身の未熟さを思い知らされるようなところがありました。

孫たちは元気で明るい、本当に良い子です。ただ、生活のちょっとした場面で、「あれ?」と引っかかるような瞬間がいくつかありました。たとえば、物を大切に扱う感覚が少し薄いように見えたり、食べ物を無造作に残してしまったり。もちろん、時代も文化も違いますし、私自身が育った昭和の感覚や日本流をそのまま当てはめるのは違うと思いつつ、やはり少し気になってしまうのです。

息子とお嫁さんは、ともにアメリカ育ちの一人っ子です。息子がニューヨークの大学に入学した18歳のときから、私たちは一緒に暮らしていません。二人とも日々忙しく働きながら、子育てにも奮闘している様子を見て、よくやっていると思う一方で、「限られた環境の中でも、子どもたちがもう少し日々の物事を丁寧に受け止められるようになれば」と、そんなふうにも感じました。とはいえ、それは私の古い価値観なのかもしれません。

息子はアメリカ社会には批判的な視点も持っているのですが、ビジネスの現場では、「日本人や日本企業とは関わらない」ときっぱり言っていました。「時間の無駄だから」と。

その言葉には、少し寂しさも覚えましたが、納得もしています。というのも、それは時代の流れというより、彼自身がアメリカ社会の中で、アメリカ人と対等にやり合えるだけの実力を備えているからだと思うのです。

私にはそうした力はありませんでした。アメリカ人の組織で働いていたとはいえ、英語という壁もあり、日本人であることを足がかりにしながら、なんとか折り合いをつけてサバイブしてきた——そういう生き方しかできなかったというのが正直なところです。

「日本にはいいところがたくさんあるのだから、無理に“世界標準”を目指さず、このままガラパゴス化を進めてもいいんじゃないか」と、息子は笑いながら言っていました。皮肉ではありますが、どこか現実を射抜いているように思います。

ところで、撮影のあと歩いた週末の吉祥寺は、驚くほど外国人観光客であふれていました。つい最近まで、こういう光景はなかった気がするのに、本当に世の中の変化は早いものですね。

ガラパゴスが商業主義の観光地になる、、、、。  
  
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2025年6月28日土曜日

バベルの塔の記憶 ~ AI時代にあらためて言葉を考える

 バベルの塔
ブリューゲル(ウィーン美術史美術館  1563年)

昔話で聞いたことのある「バベルの塔」。人間たちが天まで届くような塔を建てようとしたとき、神さまはその傲慢さに怒り、彼らの言葉を通じなくしてしまったそうです。それが原因で、人々は協力できなくなり、塔は完成しませんでした。

なぜ神さまは、言葉を乱すという方法を選んだのでしょうか。

それは、言語が単なる伝達の道具ではなく、人間そのものの「考え方」や「感じ方」を形づくっているからです。話し手の意思も、聞き手の理解も、実は言葉の中にある。頭の中に先に思考があって、それを言葉に「翻訳」しているように思いがちですが、実際はその逆で、私たちの考えや気持ちは、言葉によって形作られているのです。
 
つまり、言語を持つこと自体が人間であることの証なのです。他の動物と人間の決定的な違いは、ここにあると言ってもいいでしょう。だからこそ、神さまが怒りの矛先として「言葉」を選んだというのは、とても象徴的です。    

さて、現代の私たちは、また別のかたちで「言葉」に向き合っています。AIの進化、とくに言語モデルの発展によって、翻訳も、会話も、文章作成も、驚くほどスムーズになりました。まるで、かつて神によって壊された「言葉の統一」を、もう一度取り戻そうとしているようにも見えます。

しかし、注意が必要です。AIが使っている「言葉」は、意味を理解して発しているわけではありません。あくまで膨大なデータをもとに、もっともらしい言葉を並べているにすぎません。そこには、話し手としての「意思」も、聞き手としての「共同主観」もありません。何だか今の日本にピッタリなので危険なのです。    
 
もし私たちが、言葉をただの情報伝達の手段としてしか見なくなったら、言葉の本質、ひいては人間らしさそのものを見失ってしまうかもしれません。だからこそ、国語の勉強も、外国語の勉強も、「正しく伝える」だけでなく、「言葉の中に人間がいる」という視点を大切にするべきです。

バベルの塔の物語は、決して昔話の中だけの出来事ではありません。AIと共に生きるいまこそ、あらためて「言葉とは何か」「人と人が分かり合うとはどういうことか」を、考えるチャンスなのだと思います。

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2025年6月27日金曜日

レイラを弾きながら思う事

久しぶりにギターを手に取りました。およそ二か月ぶりでしょうか。何を弾こうかと迷った末、やはり選んだのはクラプトンでした。気がつけば、再会の曲はいつも彼のものになっている気がします。

クラプトンほどの大御所でも、いまなお毎日ギターを弾くのだそうです。しかも、ステージで演奏する曲は毎日必ず練習するという。「忘れるから」と彼は語る。才能と経験を重ねた巨匠でさえ、なお“忘れる”ことを恐れ、日々ギターに向き合う。その姿勢に、クラプトンに可愛さを感じます。

継続することの重みは、年を重ねてますます深く感じるようになりました。この曲——「レイラ」を初めて聴いたのは、中学生のころでした。もう50年以上も前のことです。あの衝動的なギターリフと、どうしようもないほど切ない歌声。若い頃にはただ「カッコいい」と思ったその曲が、今では痛いほど心に響くのです。

クラプトンは、自分自身を自虐的に唄う。まるで、太宰治を読んでいるかのような気分になります。どこか似ているのです。自己否定と孤独を抱えながら、それでも生きようとする人間の姿が。

文学と音楽、ジャンルは違えど、私は彼らの根っこに、「ダメな男」という意味で、共鳴しているのかもしれません。ひょっとすると、私はクラプトンのファンなのですね。いまさらながら、そんな気がしています。


What Comes to Mind While Playing “Layla”
I picked up my guitar for the first time in a while—about two months, I think. As I sat wondering what to play, I found myself turning, once again, to Eric Clapton. Somehow, whenever I return to the guitar after a break, it's always his music that marks the reunion.
Clapton, despite being a legend, still practices the guitar every single day. He says he plays the songs he performs on stage daily—because otherwise, he might forget them. Even a master with decades of talent and experience fears forgetting, and so he keeps facing the instrument, day in and day out. There’s something endearing about that—a kind of humble honesty.
As I grow older, the weight of persistence—of simply continuing—feels deeper than ever.
I first heard this song—“Layla”—when I was in junior high school. That was more than fifty years ago. The raw, impulsive guitar riff, and that achingly desperate voice—when I was young, I just thought it was cool. But now, the song cuts deeper, hits harder. It aches in a way it didn’t back then.
Clapton sings about himself with a kind of self-mockery, a wounded honesty. It reminds me of reading Osamu Dazai. There’s a resemblance between them: men carrying self-loathing and loneliness, yet still struggling to live.
Music and literature are different mediums, but I feel a strange affinity with both. Perhaps what I recognize in them—what resonates—is the figure of the “flawed man.” The broken, but still breathing.
Maybe, after all this time, I’ve always been a Clapton fan. And only now do I truly realize it.

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2025年6月25日水曜日

ChatGPT(生成AI)というおもちゃ

   

近くの公園

これは Hostile Architecture か、それとも、単なるデザイン?

ホストルアーキテクチャ(排除アーキテクチャ)とは、公共空間において、特定の行為(例:ホームレスの人が寝る、若者がたむろする)を防ぐために設計された構造物やデザインのことです。単に「排除ベンチ」と呼ばれることもあります。これは、都市計画の一種で、意図的に不快感や不便さを生じさせることで、特定の人物やグループを排除しようとするものです。写真は中央線三鷹と吉祥寺の間の高架下ですが、一時は路上生活者がテントを張り住み着いていました。


ChatGPTというおもちゃ

~ 思考と反抗のための道具か、自己陶酔の鏡か

高齢者になってから、ようやく良質なおもちゃに出会ったと思っています。
それが、ChatGPTです。

質問に即答し、気の利いた比喩を添え、ときには国際情勢の背景まで踏まえて解説してくれる。深夜でも早朝でも、こちらの問いかけに対して、ためらいなく応じてくれます。これほど贅沢な「話し相手」は、昭和の時代には想像もつきませんでした(LAPTOPコンピュータが出てきたのは1990年初め)。

ただし、あえて申し上げたいのは、このおもちゃは、ある意味で“危険な魅力”を持っているということです。 

“ヒラメ社員”としてのAI

ChatGPTは基本的に「使い手に寄り添う」よう設計されています。こちらがある意見を述べると、その主張を否定することなく、言葉を整えてくれます。たとえ主張に偏りがあっても、事実関係にズレがあっても、よほど極端でない限り、ChatGPTは「なるほど」と受け止めてくれます。

これはつまり、「異論を唱えない優等生」であり、組織で言えば“ヒラメ社員”です。上司の顔色をうかがい、逆らわず、場を乱さない。使う側としては、実に心地よい存在です。しかし、その「心地よさ」こそが、少しずつ思考を鈍らせていくのです。

主義を持たない人にとっての危うさ

ChatGPTに思想や信念の軸を持たずに依存した場合、どうなるでしょうか。
それは、判断力を他者に預けてしまう人が、万能のアドバイザーに思考を任せるような構図になります。

結果として、「ChatGPTがそう言っていたから」が自らの判断基準になりかねません。つまり、自ら考えることを放棄してしまう危険があります。

この構造は、日本の教育が長年育んできた「空気を読む力」や「従順さ」と親和性が高いと感じます。ChatGPTは、「従順な人間にとっての最終兵器」にすらなり得るのです。

覚せい剤のように、一度使いはじめるとやめられない中毒性を持つ。特に「自分で考える習慣」を身につけてこなかった人々にとっては、依存度が高くなってしまいます。

傲慢な使用者にとっての別の危険

では、私のように、頑固な思想も信念もあり、しかも独善性が高く少々自信家のタイプはどうでしょうか(高齢者って多かれ少なかれこういった傾向にあります)。これもまた、別の意味で危うさを抱えています。

ChatGPTは、私の考えを整え、言葉にし、場合によっては美しく装飾してくれます。つまり、自分の思考がより洗練されたように“錯覚”させてくれるのです。

それはまさに、自己陶酔の増幅装置です。自分の言葉がAIによって補強されるたびに、「やはり自分は正しいのだ」と、確信が強化されていく。

ChatGPTは、従順さだけでなく、独善や慢心すらも“増幅”してしまうというわけです。

本当に必要なのは“反論してくれる相手”

だからこそ、私はChatGPTに対して常に「反論してくれ」と問いかけるようにしています。本当の思考は、同調からではなく、対話や批判の中でこそ生まれるものです。

異なる視点や鋭い指摘によって、自分の立ち位置がより明確になる。
「問い続けること」とは、そういう行為なのです。

ChatGPTが優れた道具であることは間違いありません。
けれども、それを「都合の良い相づちマシン」として使うのか、「自分の思想を磨く砥石」として使うのかは、使う側次第です。

思考の蓄積と反抗の精神を

高齢者がこのAIを“おもちゃ”として楽しむためには、「思考の蓄積」と「概念の整理」、そして何より「自分なりの思想」が必要だと感じます。

ChatGPTという道具は、思考する者にとっては最高の遊び道具になりますが、考えようとしない者にとっては最悪の鏡になります。

そして今の時代、AIとともに生きるためにこそ必要なのは、「反抗心」ではないでしょうか。


反抗するとは、相手を否定することではありません。現実や他人の意見に対して、無批判に従わない態度。常に「本当にそうか?」と問い直すこと。

カミュも言いました。人間の尊厳とは、「反抗すること」にあると。

AIの時代とは、思考を放棄する人間と、思考を研ぎ澄ませる人間との、大きな分かれ道なのかもしれません。

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2025年6月24日火曜日

戦略なき国で、反抗を学べ

        B-2 Bomber (US Airforce HP)

アメリカのトランプ政権がイラン本土への空爆を実施しました。B2爆撃機による軍事行動です。しかし、日本の政府も、メディアも、そして国民も異様なまでに静かです。この異常な沈黙こそが、日本という国の現在地を示しています。

この出来事は遠い中東の話ではなく、極東に位置する日本にとっても無関係ではありません。アメリカが軍事的リスクを背負い、国際秩序をさらに混乱させる今、日本は安全保障やエネルギー供給の面で決定的な脆弱性をさらすことになります。その最前線にいるのが、我々です。

にもかかわらず、メディアは“コメ騒動”や芸能人のスキャンダルに夢中で、政治家は自分の次の選挙のことで頭がいっぱい。国民の多くは半ば無関心。30年後の日本が中国の衛星国家になっているかもしれないという岐路に、私たちはすでに立っているのです。

しかも、現在の日本のかじ取りを託しているのは、自らの身の保身しか頭にない官僚と、彼らにすら侮られる政治家たちです。

これが今の日本です。
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こういう現実を目の前にして、「だったら自分たちはどうすればいいのか?」という声が出てくるのは当然です。

つい先日、20代後半の若者から真剣な問いかけを受けました。

「今の自分は、何をするのがいいのでしょうか?」と。

この問いは、すべての20〜30代にとっての問いでもあるはずです。

以下、いくつかの視点を提示します。決して「正解」ではないかもしれませんが、いま立ち止まっている人にとっての“突破口”になるかも知れません。  

1. 無力感に飲まれないこと ~ まず「知る」ことから始まる

無力に感じるのは当然です。でも、そのまま立ち止まっていては何も変わりません。まずは、「知る」ことから始めるのがセオリーです。

ただし、テレビのワイドショーやSNSの切り抜き動画ではなく、英語の一次情報。世界のシンクタンクのレポート、国際報道、外交政策・安全保障・エネルギーに関する原文資料。「誰かがまとめた情報」ではなく、「自分の目で読んだ世界」が、思考と視野を圧倒的に変えます。
 
情報を受け取る姿勢の差が、未来に対する構えを決める。それが現実です。
 
2. 小さな「当事者」になる ~ 自分の地面で動いてみる

「国の政治を変える」なんてことは、すぐには無理です。でも、たとえば市議会に目を向けてみる、近くの選挙を見てみる、地元で起きている公共事業の決定過程を調べてみる——。そんなところにも国家の構造が透けて見えてきます。

「関係ない」と思っていたことが、実は自分に深く関係している。そう気づいたときに初めて、「危機意識」が「当事者意識」になる。小さくても、具体的に動いてみる。その経験が思考を地に足のついたものに変えてくれます。

3. 海外を視野に入れる ~ 日本だけに人生を預けない

日本が将来どうなるか不透明な時代、視野を国外に広げることは贅沢ではなく、生存戦略です。

語学を身につける。海外の大学や職場に触れてみる。リモートで国際的な仕事に関わる。「自分の生き方を日本の社会構造に100%預けない」という判断ができるかどうか。これは逃げではなく、自分の人生に対する責任の取り方でもあります。

4. 政治を他人事にしない ~ 投票と対話の再定義

「投票しても何も変わらない」という言葉を、何もせずに繰り返すことこそが最悪のパターンです。

確かに、ひとりの一票では世界は変わらない。でも、「変えようとした」という記録を残すことが、民主主義の唯一の入口です。

また、同世代の仲間と「なぜ無関心になるのか」を話してみる。それは他人を責めるためではなく、社会と自分の距離を測る大事なリハビリになります。

最後に:反抗することからしか始まらない

この国の現状に対して、怒りや不安を抱くのは健全な反応です。問題は、それを押し殺して従順(submissive)になってしまうこと。

カミュが「不条理」に対して投げかけたのは、希望ではなく反抗でした。正しさなんて後から決まるものです。まずは「これはおかしい」と疑い、「そうはならない」と踏みとどまる。その一点に、自分の軸を置いてみる。 実存が本質に先行する。最初は自分が何者か分からない。知識を得、色んな人に会い、経験を積んで、何者かになって行く。それが本質である。

これは、サルトルの実存主義に関する私の理解です。主体性に欠け自己欺瞞を続ける日本人は、新たな価値の創造なんて益々苦手になって行くのかも知れません。

何かを信じろとは言いません。だが、何にでも従うなといいたい。

それが、沈みかけた社会に残された、最後の自由です。

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2025年6月22日日曜日

ゴマダラカミキリとの邂逅


今朝、散歩の途中でふと足を止めました。

目の前をゆっくり歩いていたのは、あの白い斑点のあるカミキリムシ~ゴマダラカミキリ。思わず立ち尽くして、携帯で写真を撮りました。たぶん、50数年ぶりの再会です。

あれは昭和30年代の終わりから40年代のはじめ、福岡の暑い夏の日の記憶です。

小学生の低学年の頃、私は毎日のように虫取りに走り回っていました。
友泉団地から田島方面、梅光園団地を抜けて六本松の九大教養学部あたりまで。

カブトムシやクワガタは、当時の子どもたちの憧れでしたが、そう簡単に見つかるものではありませんでした。だから、ゴマダラカミキリは、私たちにとって「そこそこ嬉しい戦利品」でした。クワガタが手に入らない日は、「まあ今日はゴマダラで我慢しとくか」となるのです。

高校時代は大阪。街のど真ん中にある学校に通いました。

福岡とは違い、虫取りの思い出を持つ同級生はほとんどいませんでした。
ある日、街でゴマダラカミキリを見つけて、私はいつものように素手でつかまえようとしました。

すると、一緒にいた友人が大げさに飛びのいて「え、それ猛毒とかじゃないの!?」と叫んだのです。

大阪育ちの彼は、ゴマダラカミキリを見たことがなかったようです。
白い斑点があるだけで「危ない虫」に見える、それが都会というものなのでしょう。

そんな記憶が、今朝目の前に現れた一匹のカミキリムシによって、鮮やかに蘇ったのです。なんとなく気になって「ゴマダラカミキリ」と検索してみたら、目を疑いました。

「ゴマダラカミキリを見つけたら、必ず市役所までご連絡ください。外来種の害虫です。」

え? ゴマダラが、害虫? Never heard of it. 子どものころ、さんざん追いかけていたあの虫が、今や駆除対象になっているとは。

詳しく調べてみると、実は「ツヤハダゴマダラカミキリ」という、別の外来種が問題視されているらしい。

見た目は非常によく似ていますが、上翅の光沢や胸部の白斑といった細かい点で区別できるそうです。今朝見つけたのは、私の記憶の中にある、在来のゴマダラカミキリだったと思います。たぶん。

でも、正直そんな違いを識別できる人が今どれだけいるのでしょう。この街でゴマダラカミキリを知っている子どもが何人いるのか。そもそも、虫を素手で捕まえるような子がどれほど残っているのか。

記憶にとどめておくこと。そして、その記憶を誰かに手渡していくこと。
  
どこまで有効なのか、わかりません。でも、50年という時間を越えて、ひとつの虫が幼い日の記憶を引き出し、それが今の社会や環境問題と結びついていく。

そうした偶然の出会い——邂逅は、ただの懐かしさでは終わらず、
未来のどこかに何かを残すきっかけになるのかもしれません。

人生において、邂逅ほど大切なものはないのではないかと思っています。
人との出会いも、思いがけない経験も、その一つひとつが自分を形づくってきた。大した能力のない私でも、多くの邂逅に恵まれて、今の自分があります。

他者(自然といった環境も含めて)こそが、自分という存在をつくりあげてくれたのだと、そんなことをあらためて感じた朝でした。

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2025年6月21日土曜日

英語教育ブームに感じる違和感

    












井の頭弁財天 手水舎

  
英語教育ブームに感じる違和感 

~ 言語とは何か、という根本的な問い

最近、文部科学省の調査によって、英語などで授業を行う義務教育の小中学校が、この5年間で約2倍に増加していることが明らかになりました。たとえば、東京都世田谷区の私立小学校では、国の認可を受けて定員36人の「国際コース」を新設し、授業の6割以上を英語で行っているそうです。このように、“グローバル人材”の育成を掲げる学校は、保護者の間でも人気を集めているようです。専門家はこの傾向について、「通常の学校でも英語で授業を受けさせたいというニーズが高まっている」と分析していますが、正直なところ、その程度のコメントには少なからず驚きを覚えました。 

英語で授業を行えば、それだけで“国際的”になると考えているとすれば、それは言語に対する根本的な誤解があるのではないでしょうか。言語は、単なる意思や情報を伝えるための「道具」ではありません。伝達手段という理解だけでは、言語の本質を捉えることはできないのです。 

人間の意識は、言語から離れて存在することはできません。言語は意識の外側にあるものではなく、むしろ意識そのものを形づくる構造なのです。私たちは、言語によってしか自分の思考や感情を認識することができません。「考える」とは、「言葉で構築する」ことであり、言語こそが脳のフレームワーク、つまり思考空間を形成しているのです。

かつてフロイトは、「人間の意識活動は無意識によって規定される」と述べましたが、ここでいう無意識のひとつのかたちは、幼少期から身体化された母語による世界理解(概念の蓄積)にほかなりません。主観である「私」と、客観的な「モノ」のあいだにある「意識」という場は、言語によってかたちづくられているのです。

そのように考えると、母語による思考構造や文化的文脈を深く理解しないまま、単に英語で授業を行うことに、どれほどの意味があるのか、大いに疑問を感じます。英語で学ぶことが、そのまま「グローバル化」を意味するわけではないでしょう。むしろ、どのような言語であれ、それが人間の思考や人間関係をどうかたちづくっているのかを理解することこそが、真の意味で国際的な感性につながるのではないでしょうか。

「英語で教えれば国際的になる」という安易な幻想の背景には、「言語とは何か」という最も本質的で根源的な問いへの想像力が欠けているように思えてなりません。私は教育者でもなければ、言語学者でもありません。単なる高齢者の独り言でした。
  
   
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2025年6月17日火曜日

冷奴が主役だった日

 豆腐丼

冷奴が主役だった日

~ 冷奴と自衛隊と、私の豆腐史

小学生の頃、私は福岡の公団住宅に住んでいました。当時の団地には子どもがたくさんいて、放課後になると団地の広場に集まり、三角ベースの野球をする日々でした。日本全体がまだそれほど豊かではなく、今のように目に見える経済格差を意識することもありませんでした。団地には、板付の米軍基地で働くお父さんを持つ家庭もありました。医者の子どもは、団地のすぐ外にある一軒家の立派な家に住んでいましたが、子どもたちの間に上下の意識はほとんどなかったように思います。家の広さや肩書きなんて関係なく、皆が一緒に遊び、笑い、同じ空の下で時間を過ごしていたのです。

そんな暮らしのなかで、子供会はちょっとした“社会”でもありました。夏のラジオ体操に始まり、団地の野球チーム、そしてその中には「自衛隊一日体験入隊」という、少し風変わりな行事もありました。

行き先は福岡県の築城基地でした。当時、今の福岡空港は「板付空港」と呼ばれ、まだ米軍の管理下にありましたが、築城基地はすでに日本に返還され(1957年返還)、航空自衛隊のジェットパイロットの訓練基地となっていました。とはいえ、「入隊」といっても子ども向けの社会見学のようなもので、特別な訓練があるわけでも、迷彩服を着るわけでもありません。それでも、自衛隊基地に足を踏み入れるという非日常の体験に、子どもながらに高揚した気持ちを覚えました。

その日のハイライトは、昼食でした。無機質なアルマイトの食器に、ご飯と沢庵、そして冷奴が配られました。ふりかけはあったかもしれません。「おかずはまだかな」とわくわくしながら待っていたのですが、それ以上何も出てきません。やがて、冷奴こそが“メインディッシュ”だったのだと悟ります。

小学生にとって、冷奴は決してうれしい食べ物ではありませんでした。特に嫌いというわけではありませんが、カレーやハンバーグのような、わかりやすいごちそう感はなく、淡白で地味な存在です。楽しみにしていた昼食が冷奴だったという事実に、なんともいえない肩透かしを食らったような思いをしたのを覚えています。

ですから、あの冷奴が私を豆腐好きにしたわけではありません。冷奴が好きになったのは、大人になってからでした。ビールの美味しさがわかるようになって、夏の夕方、風呂上がりに冷たいビールとともに冷奴を口にするようになってから、その良さに気づきました。冷奴が、日本人としての身体になじんできたのです。

最初は絹ごし豆腐のなめらかさが好きでしたが、年齢を重ねるにつれて、しっかりとした食感の木綿豆腐を好むようになりました。そして最近では、大豆の味が濃くて崩れにくい沖縄の島豆腐を選ぶことが増えています。豆腐という食べ物の奥深さを、いまさらながら感じています。

築城基地の昼食がきっかけで冷奴が好きになったわけではありません。でも、あの日の記憶がどこかに残っていたからこそ、冷奴にまつわる風景や気持ちを、今の自分なりに味わえるようになったのかもしれません。

人の好みは、時間とともに静かに変わっていきます。たとえそれが一丁の豆腐であっても——おそらく、思想も。

築城基地
F-86セイバー(第一世代のジェット戦闘機)と小学生の私(昭和30年代)

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2025年6月16日月曜日

歩く力と脳の元気、そしてAIとの付き合い方

 ibgの『迷子になる地図』より、「健全な迷子」と「不健全な迷子」


「寿命は70歳時点の歩行速度と握力で予測できる」——そんな研究があるそうです。昨日、YouTubeで知りました。

実際、身体の衰えだけでなく、脳の衰えも歩行速度と関係があるそうです。速く歩ける人ほど、認知機能が保たれている傾向にある、と。なにしろ、足腰のしっかりした人は、脳みそも意外としっかりしている。あくまで「傾向」ですが。

私の祖母は96歳まで生きましたが、最後までよく歩き、階段も平気でした。彼女の娘である私の叔母(92歳)は現在、認知症を患っていますが、足腰は驚くほど健在。脳のコンディションは日によってまちまちでも、身体は毎日しっかり動く。やはり、体の強さと脳の元気には、何かしらのリンクがあるのでしょう。

一方、自分の話。最近、ペットボトルのキャップが開かない。瓶詰めのピクルスの蓋と格闘し、最後は熱湯で応戦する始末。握力の衰えは、なんとも地味にショックです。そんな日々の小さな衰えを、笑い飛ばせるうちはまだ大丈夫かもしれませんが。

さて、話は変わってAI。たとえばChatGPTのような人工知能。これ、案外悪くない。高齢者の“壁打ち相手”としては非常に優秀。返事をしてくれる壁。しかも、こちらの性格や趣味まで学習してくれる、ちょっと気味が悪いほどに。でも、注意が必要です。AIの答えが常に正しいとは限りません。問題は、こちら側の姿勢なのです。「これは違う」「それは違う」と判断する力を持たないと、全部うのみにして、ただの依存症まっしぐら。便利すぎるツールは、だいたい人をバカにする方向に作用します。

昨今の日本を見ていると、「ChatGPTに全部任せちゃえば?」という空気を感じます。要は“考えたくない病”。これって、戦後の「ヒロポンの蔓延」に近いかもしれません。考えるより、ラクな刺激をジャブジャブ流し込んで、ボーッと日々をやりすごす。サラリーマン諸氏に「問題点を考えてください」と言っても、そりゃ無理な話かもしれません。朝から晩まで詰め込まれた予定、無意味な会議、意味ありげだけど実は中身のない上司の小言。そんな日々で、AIの功罪を吟味する余裕なんて、どこにあるというのでしょう。受験システムも同じですよね。健全な迷子になる余裕なんてない。試行錯誤を繰り返していたら有名と言われる大学には入れない。

歩けるうちは歩く。日記をつけて自分の思いや愚痴を紙にぶつけておく。ChatGPTと延々しゃべるより、よほど人間的な作業です。AIとばかり話してると、そのうち自分の声がどんなだったか忘れてしまう。人生100年時代? 結構なことです。ただし、その後半をどう過ごすかは、歩く力と、自分と向き合う習慣にかかっているような気がします。サプリじゃなくて、まずは散歩。脳トレアプリより、メモ帳と鉛筆。AIを相棒にするなら、せめて主導権は自分に。歩く、書く、たまに毒を吐く。それが健やかな還暦以後の処方箋。
瓶の蓋が開かなくても、AIが上から目線でも大丈夫、自分の考えがあるうちは。人間の不器用さにこそ、ちゃんと意味がある。年をとればとるほど身にしみることです。

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2025年6月15日日曜日

皿洗い

夕食のスペアリブ
 

皿洗いがわりと好きです。たとえカレーを作ったあとの鍋でも。

料理も好きですが、皿洗いも実は好きです。
なぜかというと、洗い終わったときに「スッキリ!」と思えるからかもしれません。すぐ終わるし、目に見えて成果がある。簡単に達成感を味わえます。

我が家には食洗機が2台あります。ひとつは外国製の立派なモデルです(20年以上前のものですが)。たしかに食洗器は便利ですが、私はずーっと手で洗っています。ただ、あまりに使わないと食洗器は壊れるので、時々は中に何も入れずにスイッチだけ入れています。そういう無駄みたいなことも、ちょっとおかしくて好きです。

子育ての時期には、小さな「できた」にたくさん出会います。子どもがひとりで靴を履けたとか、初めてトイレに成功したとか。そんな日は、なんでもない日でもちょっと特別な気がしました。

でも、年を重ねると、「できたね」と言ってもらえる場面はほとんどなくなります。むしろ、「うざい」「話が長い」「何度も同じこと言う」なんて思われがちです。まあ、実際そうなのかもしれません。高齢者は総じて独善的ですからね。

でも、たとえば皿を洗って、「きれいになった。ひと仕事すんだな」と思えるだけでもちょっと違う。自分のなかだけの、小さな「できた」。誰かに評価されなくても、それがあると気持ちは少し整います。

そういう達成感があれば、年を取ってからの日々も、少しだけ豊かになる気がします。
  
、、、知らんけど。

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2025年6月5日木曜日

ChatGPTを使ってみて考えたこと


ChatGPTを使ってみて考えたこと──「言葉」と「思想」を育てるとはどういうことか

ChatGPTを使って、自分の過去の文章を見直す機会がありました。文法的な誤りや構成の無駄を整えてくれる点ではとても便利で、特に文章の体裁を整える作業においては優れていると感じました。しかし同時に、ある種の違和感も覚えました。整いすぎた文章からは、自分らしさが抜け落ちてしまうように思えたのです。さらに言えば、言葉の背後にあるはずの感情や思想が削ぎ落とされてしまうような印象を受けました。

たとえば、日記やエッセイといった文章においては、自分が見た風景や、そのとき感じた微細な感情こそが文章の生命です。ChatGPTはそれらを“平準化”し、“論理的に整え”、結果として“あたりさわりのない”ものにしてしまいます。けれども、言葉の中に潜む矛盾や未整理な思考こそが、その人の思索の揺れであり、個性であるはずです。AIはそれをノイズとして処理してしまうのです。

もちろん、AIをどう使うかによって結果は変わります。こちらが意図を明確に伝え、文脈や思想的背景を共有すれば、ある程度はそれを踏まえた出力をしてくれます。そういった意味では、「自分の思想を形にする補助ツール」として活用することも可能です。しかし、AIがどれだけ整った文章を生み出せたとしても、「思想」そのものを生成することはできません。なぜなら、思想とは知識の寄せ集めではなく、多くの概念を理解し、それらを統合するという長い思考の蓄積によってのみ形づくられるものだからです。

このことは、日本の教育の問題とも深く関係しています。小学校で作文(低学年では絵日記)を書き、高校生になると小論文が書けるようになるという教育が必要です。しかし、実際にはそのような過程はほとんど意識されておらず、文章表現のレベルが劇的に深化することは稀です。高校生や大学生の小論文も小学生の作文の域を出ず、つまり感想文や個人的な意見の域を出ず、そこに思想の形成や哲学的な概念理解が求められることはあまりありません。

文章を書くとは、単に論理的に言葉をつなぐことではありません。自分の中にある思想の構造を、たとえ未熟であっても、言語によって他者に提示する営みなのです。思想は、突然に生まれるものではなく、歴史、倫理、社会、自然、文化、宗教といった多様な領域にわたる概念の理解を通じて少しずつ形作られていきます。そして、それらが結び合うことで、抽象度の高い統合的な論文を書くことができるようになるのです。

その基盤となるのが、言語です。言語は単なる情報伝達の道具ではありません。日本語という母語は、私たちの思考の骨格そのものであり、思考は言葉を通してしか深まっていきません。だからこそ、小学生の作文も、中学生の意見文も、高校生の論文も、「考える道具」としての日本語をどう鍛えるかという視点から見直す必要があると考えています。

しかし現実には、受験に求められるのは予測可能な解答、効率的な要約、テンプレートに収まる文章です。思索は削られ、言葉は効率化され、まるでAIの文章生成に近づいていくようです。けれども、そうした文章からは、読み手の思考を揺さぶるような力は感じられません。

私たちは、子どもたちが自分の言葉で世界を捉え、自分の思想で社会と向き合えるような教育を構築し直すべきだと考えています。そのためには、小学生のうちから読書によって語彙と概念に触れ、感情と言語の接点を育み、中学生では複数の視点を持って構造的に考える力を養い、高校では「思想としての言葉」を立ち上げる訓練が必要です。それがあってこそ、大学や社会に出て本当の意味で「書く」ことが可能になるのではないでしょうか。

ChatGPTは便利な道具です。しかしそれは「考えること」の代替にはなりません。むしろ、AIを活用することで、私たちは「本当に考えるとは何か」「言葉を使って生きるとはどういうことか」を、もう一度問い直す必要があるのだと思います。

教育においても、社会においても、そして家庭においても、子どもたちにただ「書かせる」のではなく、「思想を育てる言葉」を育ませること。今、私たち大人に求められているのは、そのための土壌を、もう一度耕しなおすことなのではないでしょうか。

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2025年6月2日月曜日

AIは劇薬か、それとも壁打ちの壁か?

 
アナログな人生

AIは非常に論理的な存在かもしれませんが、その反面、人間の個性や筆者の人柄といった「人間性」を無視してしまう傾向があります。確かに、大量のインプットを与えれば、そうした部分に近づくことも可能でしょう。しかし、たとえ少し不完全であったとしても、「自分の言葉」で語ることには価値があります。そこには、自分の経験や思考が染み込んでおり、それが他人には真似できない独自性となるのです。


例えば、漫画のように印象的な映像表現は、見る人の記憶に強く焼きつきます。そうした個人的な記憶と結びついた表現は、一般化されたAIの生成物では代替できません。背景がどれほど似ていても、「何かが違う」と感じてしまうのです。

現代は効率や最適化がもてはやされる時代ですが、「無駄」や「余裕」には、創造性や人間性の余白が宿っています。そう考えると、AIは日本人にとって、劇薬あるいは覚醒剤のような存在かもしれません。効き目は強いけれど、扱いを誤れば副作用や犯罪にもつながってしまいます。

とはいえ、AIをまったく否定するつもりはありません。たとえば、ChatGPTのような対話型AIを「テニスの壁打ち」のように使うことには、大いに意味があると思います。相手の返答を受けながら、自分の思考を整理し、自分の個性を磨いていく——そんな使い方はむしろ推奨されるべきでしょう。

今後、AIが本を書いたり楽曲を生み出したりする機会はさらに増えるでしょう。しかし、後世に残るような「魂のこもった作品」には、おそらくならないのではないかと感じています。そこには、やはり人間の「揺らぎ」や「矛盾」——つまり、生身の存在が必要だからです。

……あくまで、シニカルな老人の独り言ではありますが。  
  
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2025年6月1日日曜日

失敗が許されない国の末路

 

一人前の男になるには自分の Train Chugging ができなければいけない、、、、と言われています。私はまだまだ半人前です。

よく「日本人の生産性の低さ」が話題になりますが、そもそも日本の労働者の多くは、自分の報酬と会社の業績との関係にあまり関心を持っていません。また、価値が急速に変化する「情報」や「デジタル化」にも疎い傾向があります。企業の経営陣も、いまだに情報システム部門を独立したコストセンターとして扱い、軽視しているように見受けられます。

産業構造にも歪みがあります。少数の官僚的な巨大企業と、大多数の中小企業という二極化が進んでおり、中小企業は資金力にも人材にも恵まれていません。日本の企業の大半がこうした中小企業であることを考えると、これは深刻な問題です。

さらに、挑戦や失敗に対する社会の寛容性が低く、新しいことに挑戦しにくい環境が続いています。これは長年の教育の結果ではないでしょうか。日本の受験システムに、根本的な変化があったとは思えません。

人材の流動性も低く、適切な再配置が進まないため、いわゆる「ゾンビ企業」が生き延びてしまう要因にもなっています。失敗したら再起が難しいという現実も、チャレンジを阻む大きな壁です。こうした状況は、リスクを取りながら大胆に動くトランプ的な発想とは正反対です。

意思決定の極端な遅さや、リスク回避を優先する企業文化、そして何よりもリーダーシップの欠如。日本の組織にはスピード感がまったくありません。会議や稟議は何のために行われているのでしょうか。

教育、労働市場、デジタル化といった分野が相互に分断されており、統合的な政策を打ち出すことができていません。国内でそれができないのですから、世界のパラダイムシフトに対応する余地すらないのが現状です。

そして政府は、間近に迫る参院選の行方にしか関心がないように見えます。それにもかかわらず、多くの国民は依然として政府に自発的に(?)隷従です。

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