物語をやめた国
物語の中に、ひとつの国がありました。
そこでは、政治家たちが手元の作文を読みながら、「語っているふり」をしていました。
「ヴィジョンとは何か」
「成長戦略とは」
「この国の未来とは」
そんな言葉を並べながら、彼らは実際には何も語らず、何も決めず、たどたどしく誰かが書いた作文を読んでいる。肝心の中身には、誰も関心を持っていませんでした。
政治家たちが勝手にしゃべるたび、国民は「ああ、またか」と目を伏せます。言葉だけじゃない。顔も見たくない。むしろ吐き気がするようになった。
誰もが次の展開を知っていました。
- 主人公のいない物語
- 反省しない登場人物たち
- ページがすすまない
もともとは「読者」だった人です。税金という参加費を払い、静かにこの国に生きてきた。
けれど、ある日ふと、こうつぶやいてしまいました。
「このストーリー、あまりにも退屈じゃないか? しかも、バカ高い金払ってさ」。
その瞬間、彼は物語の外へと押し出されました。
「反政府的だ」「空気を読め」と言われながら、語り手でありながらページの隅に追いやられた。
しかし彼は気づいてしまったのです。
この国には、もはや物語をつくれる人間がいない。
誰も責任を取りたがらず、誰も新しい筋書きを描こうとしない。
ただ「前例」と「忖度」と「お友達」の三点セットで、台本は惰性で進んでいく。
「もう一度、最初から書き直すしかない」
語り手はそうつぶやき、ペンを手にしました。
物語を捨てた国を、もう一度、物語が始まる国へと修理するために。
語り手とは、物語の修理工でもあるのです。
この国の物語は、まだ書きかけのままです。
でもひとつだけ確かなことがあります。
こんな茶番に付き合うほど、読者はバカじゃない。
日本人は、賢い読者ばかりです。
空気を読み、先を読み、余白を読み、沈黙の意味すら読もうとする。
「読者」がただの傍観者で終わらないとき、「語り手」が生まれます。
それは、カミュの言う「反抗」であり、60〜70年代のサルトル的実存の実践でもある。
今この国に必要なのは、そうした静かな決意です。
「読むだけ」の位置から一歩踏み出して、「語り始める」こと。
沈黙ではなく、言葉を選び、筆を取り、物語の修復に加わること。
物語をやめた国で、物語をもう一度つくるために。
その仕事は、まだ終わっていません。
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