2025年4月1日火曜日

ボロのように憂鬱

 
武蔵野市の桜(3月31日)


昨日は曇っていて寒かったですね。曇り空の桜はボロのように憂鬱ですね。『或る阿呆の一生』は芥川龍之介の自死直前の文章です。


隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂欝だつた。 が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。

芥川龍之介 『或る阿呆の一生』 (1927年)。

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2025年3月29日土曜日

子育て ~ 親の心構え

 

NHK HP 「これからの育児」より

https://www.nhk.or.jp/minplus/0028/?fbclid=IwY2xjawJTwn5leHRuA2FlbQIxMQABHVLOCUI1QU7u1Puw_4xWLBe5zG2y9CiTmVlkwZRaGmqC4QRKVE4dNiZ5FQ_aem_HkTc3ML-k0CtfBjf2trgtQ


世の中には種々雑多な「子育て論」があり関連書籍も数多く出版されています。子育てを以下の2つのフェーズに分けて①だけにフォーカスする「子育て論」がほとんどだと思います。

① 成人するまでの子育て
② 成人した後の子供との関係

子供が成人すれば「後は勝手にやるだろう」じゃないのです。私ができているかどうかは別として、親の心構えは誠実で信頼できる親であることです。それが全てであると言っていい。成人した後でも親子関係は継続するのです。

それは親と子の関係に限らない人間関係そのものです。普通の他者との関係を忘れないのが親として自分が死ぬまで続く子育てじゃないですか? 多くの「子育て論」に書かれているような親になろうとする必要はない。子供は親の言っている事とやっている事のギャップを見ています。つまり親の言葉と行動(態度)との関係です。それが信頼関係構築の過程です。私は生意気なガキだったので、中学生の頃は教師のあらさがしばかりやっていました。結果、信頼できない学校や先生とは距離をとった。

日本社会はアダルトチルドレンばかりのような気がします。多くは子供の頃からの親との関係に問題があったからです。それがそのまま会社では上司と部下の関係になる。本心では他者と関われない。仮面をかぶり続けるのです。

要するに親は自然にふるまえばいい。

口だけの親も教師も政治家も誠実だとは言えない。そして信頼される訳はない(総理大臣と国民の関係も同じですよね?)。
  
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2025年3月28日金曜日

アメリカ人であることは恥ずかしい

 ハートのナンシー・ウィルソン「ベトナム戦争の時、自分たちをアメリカ人と呼ぶのがちょっと恥ずかしかった。今はもっと恥ずかしい」
2025/03/25 11:13掲載

Nancy Wilson, photo courtesy of artist
「今、アメリカ人であることは恥ずかしい」。ハート(Heart)のギタリスト、ナンシー・ウィルソン(Nancy Wilson)は、ベトナム戦争を米国にとって恥ずべき時代だったと振り返る一方で、今のアメリカの「淫らな大富豪カルチャー」を痛烈に批判し、今はアメリカ人であることが、もっと恥ずかしいと語っています(記事より)。https://amass.jp/181604/
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1986年6月26日NHKホールでハートの公演を観ました。当日の録音がLIVE盤になっていることを最近になって知ったのですが、手に入れることはできませんでした。39年前アン&ナンシー姉妹も若かった。私も同様に若かった。

私が憧れのアメリカに初めて行ったのはベトナム戦争直後でした。成田空港の開港前で、赤い絨毯が敷かれた羽田国際線からの出国です。グレイハウンドのバスでアメリカを縦断したのですが、そこに見たのは疲弊して自信を失ったアメリカでした(ナンシーの言葉通り)。子供の頃からアメリカに憧れてきた私は大きなショックを受けました。しかし、今のアメリカは私が暮らした1989~2009年のアメリカよりも更に落ち込んでいます。これもナンシーがインタビューで語っている通りです。

アメリカはアメリカのアイデンティティを失った

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2025年3月26日水曜日

D₇が押さえられれた! 

 


やっとD₇が押さえられるようになりました。昨年11月に転倒して(老人!)痛めた左手の人差し指と中指が4か月かかってようやく治ってきたみたいです。


I can finally hold down the D7 code, The index and middle fingers of my left hand, which I injured in November last year, seem to have finally recovered after 4 months.

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2025年3月23日日曜日

コロッケ蕎麦で判断力を鍛える

 

コロッケ蕎麦

いつコロッケを崩すのか? 

最初はおつゆをずずーっと。それから蕎麦をひと口すする。いきなりコロッケを崩すなんて野暮はいけません。コロッケって衣がしっかりしている訳ではありません。つゆを吸って急速にふやけていくのです。

つゆに浸かった下の面はしんなりとしはじめます。上の面はまだカリっとした状態です。この一瞬が大事なのです! ここでコロッケをひと口かじる。

下はしんなり上はカリっ。やがてコロッケを崩す決断のときがやってきます。関東風のかつお出汁のおつゆはコロッケがポタージュ化して最後の一滴まで飲めるのです。

判断力や決断力をこうやって鍛えられます。

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2025年3月21日金曜日

Freedom and Responsibility (自由と責任)

Cooking is like experimenting. You try anyway. I fail, but I wouldn't stop. It is just like everyone's life. You don't give up even if you don't get recognition. It's true for my "Niku-jyaga"(Japanese beef and potatoes). Even if you fail, you keep on making it. Failure is a part of my life. It's food for thought. This time, Niku-jyaga was well done.


Education before the 15-year war of the Showa period placed more importance on the “ears” and the “mouth. However, in the 80 years after the defeat of the war, education was focused on “eyes” with an emphasis on entrance examinations.

Cooking and music are not interesting unless there is someone to eat and listen to them. Studying for exams alone is boring. Knowledge that you think with your eyes is in the past tense. It is like accounting versus finance. It doesn't produce originality.

The “ears” and “mouth” are more important than the “eyes. When the intellectual activity performed by the mouth stops, the elderly become blurred. A guitarist should sing even if he is tone deaf. It is always better to think with the eyes, ears, and mouth in a balanced manner. And when multiple eyes, ears, and mouths come together, new things are created. 

It is freedom and creation. The base of freedom is responsibility. Japanese education has taken away freedom and deprived children of their ears and mouths. Because there is no freedom (Japanese equality), people do not think about responsibility. It has been 100 years since the Showa era. We still don't realize it.

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2025年3月19日水曜日

眼と耳と口のバランス

 

料理は実験みたいなものです。とにかくやってみる。失敗する。でも止めない。人生と同じです。評価されなくてもへこたれない。肉じゃがだって同じ。失敗しても作り続ける。失敗はするものなのですよ。糧になる。今回は上手にできました。


昭和の15年戦争前の教育はもっと「耳」と「口」を大事にした。ところが敗戦後の80年は受験中心の「眼」の教育に徹した。

食べてくれる人や聞いてくれる人がいないと料理も音楽も面白くない。勉強だって一人で受験勉強なんてつまらんでしょう。眼で考える知識は過去形。ファイナンスに対するアカウンティングのようなものです。独創性が生まれない。

「耳」と「口」が「眼」以上に大切なのです。口で行う知的活動が停止すると高齢者はボケる。音痴でもギタリストは歌った方がいい。眼と耳と口で考えるのがバランスがとれていいに決まっています。そして、複数の眼と耳と口が一緒になることで新しいことが創り出される。自由と創造です。自由のベースは責任です。日本の教育は自由を奪い耳と口を奪ってしまった。自由がないから(日本的平等)責任を考えない。昭和も100年です。まだ気づかない。

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