AIは非常に論理的な存在かもしれませんが、その反面、人間の個性や筆者の人柄といった「人間性」を無視してしまう傾向があります。確かに、大量のインプットを与えれば、そうした部分に近づくことも可能でしょう。しかし、たとえ少し不完全であったとしても、「自分の言葉」で語ることには価値があります。そこには、自分の経験や思考が染み込んでおり、それが他人には真似できない独自性となるのです。
例えば、漫画のように印象的な映像表現は、見る人の記憶に強く焼きつきます。そうした個人的な記憶と結びついた表現は、一般化されたAIの生成物では代替できません。背景がどれほど似ていても、「何かが違う」と感じてしまうのです。
現代は効率や最適化がもてはやされる時代ですが、「無駄」や「余裕」には、創造性や人間性の余白が宿っています。そう考えると、AIは日本人にとって、劇薬あるいは覚醒剤のような存在かもしれません。効き目は強いけれど、扱いを誤れば副作用や犯罪にもつながってしまいます。
とはいえ、AIをまったく否定するつもりはありません。たとえば、ChatGPTのような対話型AIを「テニスの壁打ち」のように使うことには、大いに意味があると思います。相手の返答を受けながら、自分の思考を整理し、自分の個性を磨いていく——そんな使い方はむしろ推奨されるべきでしょう。
今後、AIが本を書いたり楽曲を生み出したりする機会はさらに増えるでしょう。しかし、後世に残るような「魂のこもった作品」には、おそらくならないのではないかと感じています。そこには、やはり人間の「揺らぎ」や「矛盾」——つまり、生身の存在が必要だからです。
……あくまで、シニカルな老人の独り言ではありますが。