2025年6月2日月曜日

AIは劇薬か、それとも壁打ちの壁か?

 
アナログな人生

AIは非常に論理的な存在かもしれませんが、その反面、人間の個性や筆者の人柄といった「人間性」を無視してしまう傾向があります。確かに、大量のインプットを与えれば、そうした部分に近づくことも可能でしょう。しかし、たとえ少し不完全であったとしても、「自分の言葉」で語ることには価値があります。そこには、自分の経験や思考が染み込んでおり、それが他人には真似できない独自性となるのです。


例えば、漫画のように印象的な映像表現は、見る人の記憶に強く焼きつきます。そうした個人的な記憶と結びついた表現は、一般化されたAIの生成物では代替できません。背景がどれほど似ていても、「何かが違う」と感じてしまうのです。

現代は効率や最適化がもてはやされる時代ですが、「無駄」や「余裕」には、創造性や人間性の余白が宿っています。そう考えると、AIは日本人にとって、劇薬あるいは覚醒剤のような存在かもしれません。効き目は強いけれど、扱いを誤れば副作用や犯罪にもつながってしまいます。

とはいえ、AIをまったく否定するつもりはありません。たとえば、ChatGPTのような対話型AIを「テニスの壁打ち」のように使うことには、大いに意味があると思います。相手の返答を受けながら、自分の思考を整理し、自分の個性を磨いていく——そんな使い方はむしろ推奨されるべきでしょう。

今後、AIが本を書いたり楽曲を生み出したりする機会はさらに増えるでしょう。しかし、後世に残るような「魂のこもった作品」には、おそらくならないのではないかと感じています。そこには、やはり人間の「揺らぎ」や「矛盾」——つまり、生身の存在が必要だからです。

……あくまで、シニカルな老人の独り言ではありますが。  
  
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2025年6月1日日曜日

失敗が許されない国の末路

 

一人前の男になるには自分の Train Chugging ができなければいけない、、、、と言われています。私はまだまだ半人前です。

よく「日本人の生産性の低さ」が話題になりますが、そもそも日本の労働者の多くは、自分の報酬と会社の業績との関係にあまり関心を持っていません。また、価値が急速に変化する「情報」や「デジタル化」にも疎い傾向があります。企業の経営陣も、いまだに情報システム部門を独立したコストセンターとして扱い、軽視しているように見受けられます。

産業構造にも歪みがあります。少数の官僚的な巨大企業と、大多数の中小企業という二極化が進んでおり、中小企業は資金力にも人材にも恵まれていません。日本の企業の大半がこうした中小企業であることを考えると、これは深刻な問題です。

さらに、挑戦や失敗に対する社会の寛容性が低く、新しいことに挑戦しにくい環境が続いています。これは長年の教育の結果ではないでしょうか。日本の受験システムに、根本的な変化があったとは思えません。

人材の流動性も低く、適切な再配置が進まないため、いわゆる「ゾンビ企業」が生き延びてしまう要因にもなっています。失敗したら再起が難しいという現実も、チャレンジを阻む大きな壁です。こうした状況は、リスクを取りながら大胆に動くトランプ的な発想とは正反対です。

意思決定の極端な遅さや、リスク回避を優先する企業文化、そして何よりもリーダーシップの欠如。日本の組織にはスピード感がまったくありません。会議や稟議は何のために行われているのでしょうか。

教育、労働市場、デジタル化といった分野が相互に分断されており、統合的な政策を打ち出すことができていません。国内でそれができないのですから、世界のパラダイムシフトに対応する余地すらないのが現状です。

そして政府は、間近に迫る参院選の行方にしか関心がないように見えます。それにもかかわらず、多くの国民は依然として政府に自発的に(?)隷従です。

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2025年5月30日金曜日

アイデンティティの崩壊 ~ アメリカの有名大学を考える

トランプのハーバード攻撃の記事やコメンテーターの意見は首をかしげるものが多い。反知性主義の理解が浅すぎるのではないでしょうか?

いくつか大事なことがあります。最初は、アメリカは平等を求めてイギリスから逃げてきた人たちが作った国であることです。だから平等という価値観が非常に強い。

2つ目は、反知性主義というのは知性の欠落を言っているのではなく、知性の権威で不当に利益を上げていないか(知性と権力・金の結びつき)をチェックしようという主義のことです。  

3つ目を挙げるとすると、リーダーとは自分の知性と権威に対して常に自己反省が出来るか否や(integrity)がポイントなのです。だとすると、今のアメリカはすでに原点に戻るのが不可能なくらい壊れてしまっている。 

そもそも北京のエリート校である清華大学はアメリカの支援で開学した経緯があり、今はどうだか知りませんが、30年ほど前は清華大学の理事会はほとんどが IBM のようなアメリカ大企業の経営者でした。そしてアメリカに留学生を送り込むような予備校のような役割を果たしていたのです。若い時の環境は人の人格形成を大きく左右します。だとすると、真理(veritas)を校章に掲げるハーバードの理念も原点に立ち戻る必要があるのかもしれません。  

日本は伝統や独自文化がしっかりした国のはずです。しかし、大学や大学の先生からはじまるアイデンティティ崩壊の様相はアメリカの後を追いかけているようです。   

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2025年5月27日火曜日

相次ぐ米兵による事件


23日から26日にかけ米兵による事件相次ぐ 4人逮捕

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アメリカの10代の子供を持つ親たちは、子供が不良に走り麻薬や飲酒などの問題を起こすと、何段階かはありますが最終的には子供を軍隊に放り込みます。
   
昔のアメリカ人の仕事仲間に海軍の将校として7年間駆逐艦に乗っていた男がいます。彼から聞いた話ですが、「海外に派兵される若い兵士たちはアメリカの学校システムや社会に適合できなかったドロップアウトで、たとえ沖縄で問題を起こしても何ら驚くことじゃない」と言っていました。彼はUS Navy で湾岸戦争にも行った将校でしたが、アメリカの軍隊は US Marine Corps(アメリカ海兵隊)以外は弱くて使いものにならないとも言っていました。

アメリカの学校には、大まかに言って以下の種類があります。義務教育は K-12といわれ、日本の幼稚園年長から高校3年生までです。

1.普通の公立学校
2.トップレベルの公立学校
3.マグネットスクールと呼ばれる公立校
4.私立校(プレップスクール、ボーディングスクールなど)

「1」と「2」の学力の格差は非常に大きい。多くの親御さんは、家計の許す限り、または、多少無理をしてでも、「2」の学校区に住まいを求めます。まさに、「孟母三遷(もうぼさんせん)」ですね(孟子の母親は子供の教育のことを考えて三度転居したということです)。

アメリカの固定資産税(Property Tax)は行政サービス と スクール税から成り立っています(ニューヨーク州)。K-12の義務教育制度の資金を支えるものが、スクール税です。子供がいない家でもスクール税は課せられます。そして、家の価値は、学校区の善し悪し、つまり、公立学校のレベルで決まります。また、税収入の多い学区は、高給で質の高い先生を雇うこともできます。
 
上記以外に、ホームスクールがあります。ホームスクールは、学校に通学することなしに自宅で学習し正規の学校教育に代える教育です。これは、「教育の自由」ということですね。学校に行かせないオプションがあるということで、それが本当の「教育の自由」と言うことだと思います。
 
日本にあるアメリカンスクール(ASIJ)は、アメリカの義務教育に準拠した学校で、カリキュラムはニューヨーク州の公立校に近いものです。

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2025年5月22日木曜日

日本人の鎮魂歌

 

『海ゆかば』。詞は大伴家持作(万葉集巻十八 西暦783年)。死者の魂を慰め冥福を祈るために捧げられる日本人の鎮魂歌です。

国のために死ぬのではなく、愛する人のためだったら死ねると詠っています。生きるには根拠がいる。人間が動物と違うのは生きる価値を自ら認めないと人は生きていけないということです。年寄りの独り言、失礼しました。

『Umi Yukaba』. The lyrics were written by Otomo Yakamochi in 783 AD. It is a requiem of the Japanese people dedicated to comforting the souls of the dead and praying for their repose.

The poem says that we could die if it were for our loved ones, not for our country. There is a basis for living. What makes human beings different from animals is that we cannot live unless we recognize the value of life ourselves. Sorry for the old man's ramblings.


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2025年5月18日日曜日

日本の治安 ~ 文化的背景

 新聞や雑誌を見なくなって25年くらい、いやもっとか? テレビも観なくなって久しい。YouTubeやネットでニュースが流れてくるので、それらの配信は見ています。ニュースを流す側、出演するコメンテーター、それにリアクションする一般の反応。内容が一定の水準に達していないと思います。記者会見でも質問する記者のレベルに問題がありすぎです。隠ぺい改ざんに買占めの扇動、テレビ番組は視聴率(お金)のためならば何でもありですね。


日本国民は何となく流れに乗っかっている人が多すぎる。福沢諭吉は『学問のすすめ』で「事物を疑って取捨を断ずる事」を語っています。福沢諭吉は言及していませんが、取捨選択する以前の問題があります。自分自身のVISION(将来の展望)を持たないと取捨選択するための情報は自分の所に集まって来ません。幕末を体験した明治初期の福沢諭吉さんにとっては、VISIONを持たないなんて考えられなかったことなのでしょうが、、、。

例えば「子供の教育に関心があって何とかしたい」と常日頃から思っていたら、「子供の教育」に関する情報が自然と集まってくるものです。これは問題意識、あるいは危機感のなせるワザかも知れません。何の問題意識もなければ氾濫するクズ情報の中に身を任せるのみです。当事者意識をもつなんて遥か彼方です。

人間の質は国によって異なります。犯罪者だって国によってやり方が違う。日本の文化や社会が優れているとか劣っているとかいうのではなく、日本はかなり珍しい存在なのです。英語で規範はNORMですが、日本は明文化されたNORMがない。それは島国という地理的な問題や単一民族単一言語であるとか長い歴史的背景がある。

他国の文化と日本の文化伝統と調整するのは政治家の重要な役割なのですが、それが職責である政治家のレベルが国民より低いか国民並みでは先行きは不安でしかない。外国人がどんどん増えています。権威に弱く臆病な日本人相手だからこそ何とかなっていた日本の警察(国内治安)が外国人犯罪に対して効果的に対応できるはずなんてないのです。警視総監は迫田裕治さん、国家公安委員長は自民党の坂井学さんです。考えは如何に?

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2025年5月11日日曜日

自分の心構えを変える


サキソフォンもハーモニカも息継ぎが難しい。ロングトーンをキープして、上手に息継ぎをしないとリズムに乗ってグルーブ感を出すことはできません。政治やビジネスだとコミュニケーションの能力と言えるかも知れません。

日本の社会は数年、否、数年どころか数十年変わらないと考えておいた方がいいような気がします。だったらどう対応するのか?

自分の生きている社会が変わらないなら自分の心構えを変えるしかない。高度経済成長期(1955年頃~1973年頃)やそれに続く期間(1975年頃~1991年頃)は、みんなが高度経済成長の波に乗っていた。一生懸命自分の仕事をすれば昇進もするし給料も上がった。頑張っただけのリターンがあったのです。ところが、今はそうじゃない。これからも数十年、もしかしたら半世紀ほどは変わらないかもしれない。

ピーター・ドラッカーが、著書で「integrity of character」という言葉を使っています。これは「人格の一貫性、統合、完全性、高潔さ、誠実さ」ということです。前提は一人ひとりが自分の人格を持っていることです。その上で「integrity of character」を意識して生きるということです。

Integrity of character refers to the quality of being honest, ethical, and having strong moral principles, consistently reflected in one's thoughts, words, and actions. It means maintaining a whole and complete moral compass, unwavering in adherence to a code of values, and acting in alignment with one's beliefs, even when faced with pressure or temptation.

我が国の福沢諭吉先生は明治時代に『学問のすすめ』の中で同じようなことを言っています。福沢さんの方がドラッカーよりも先ですね。

『学問のすすめ』12編の後半は、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」です。「ならざるべからざる」なんて難しいですね。これは、漢文では不可不~の二重否定です。つまり、「高尚でないといけない」と言っています。さて、「人の品行は高尚ならざるべからざるの論」ですが、これは、まさしくインテグリティ(integrity)のことを言っているのだろうと思います。
   
インテグリティは日本語に翻訳しにくい。「志」という人もいれば、「誠実」と訳す人もいる。しかし、どうもしっくりこない。私は、「倫理観」と「スキル」と「野心」の3つのバランスがとれていることがインテグリティであると長いこと信じていました。しかし、福沢さんに「人の見識を高尚にしてその品行を提起するの法如何すべきや。その要訣は事物の有様を比較して上流に向かい、自ら満足することなきの一事に在り」と言われると、これがインテグリティかとも思います。

日本の社会がどれだけ停滞していても、一歩前に踏み出すと今までとは違った人格の持ち主が集まって来る。これまで足を引っ張ったり頭を叩いていた人たちが遠ざかって行くものです。要するに自分の「心構え」を変えることで、周りの状況を変えることはできる。日本社会がどうだこうだ批判ばかりしてみてもしょうがない。日本の政治家を見ても大企業の経営陣を見てもインテグリティを備えた人格者は極めて少ないのが今のニッポンなのです。

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