2025年7月14日月曜日

物語をやめた国で、物語をはじめる




茅(ち)の輪くぐりの準備@奈良西方寺

夏越(なごし)の祓(はらえ)は、1年の前半を無事に過ごせたことに感謝し、後半の半年を健康に過ごせるように祈願する行事です。特に、茅の輪をくぐることで、身についた罪や穢れを祓い清めるとされています。


物語をやめた国


物語の中に、ひとつの国がありました。

そこでは、政治家たちが手元の作文を読みながら、「語っているふり」をしていました。

「ヴィジョンとは何か」
「成長戦略とは」
「この国の未来とは」

そんな言葉を並べながら、彼らは実際には何も語らず、何も決めず、たどたどしく誰かが書いた作文を読んでいる。肝心の中身には、誰も関心を持っていませんでした。

政治家たちが勝手にしゃべるたび、国民は「ああ、またか」と目を伏せます。言葉だけじゃない。顔も見たくない。むしろ吐き気がするようになった。
誰もが次の展開を知っていました。

  • 主人公のいない物語
  • 反省しない登場人物たち
  • ページがすすまない
そんななか、ひとりの「語り手」がいました。
もともとは「読者」だった人です。税金という参加費を払い、静かにこの国に生きてきた。

けれど、ある日ふと、こうつぶやいてしまいました。
「このストーリー、あまりにも退屈じゃないか? しかも、バカ高い金払ってさ」。

その瞬間、彼は物語の外へと押し出されました。
「反政府的だ」「空気を読め」と言われながら、語り手でありながらページの隅に追いやられた。

しかし彼は気づいてしまったのです。

この国には、もはや物語をつくれる人間がいない。

誰も責任を取りたがらず、誰も新しい筋書きを描こうとしない。
ただ「前例」と「忖度」と「お友達」の三点セットで、台本は惰性で進んでいく。

「もう一度、最初から書き直すしかない」
語り手はそうつぶやき、ペンを手にしました。

物語を捨てた国を、もう一度、物語が始まる国へと修理するために。
語り手とは、物語の修理工でもあるのです。

この国の物語は、まだ書きかけのままです。
でもひとつだけ確かなことがあります。

こんな茶番に付き合うほど、読者はバカじゃない。

読者から語り手へ──静かな反抗のすすめ

日本人は、賢い読者ばかりです。
空気を読み、先を読み、余白を読み、沈黙の意味すら読もうとする。

「読者」がただの傍観者で終わらないとき、「語り手」が生まれます。
それは、カミュの言う「反抗」であり、60〜70年代のサルトル的実存の実践でもある。

自らが語る者となるとき、物語は再び始まるのです。

今この国に必要なのは、そうした静かな決意です。
「読むだけ」の位置から一歩踏み出して、「語り始める」こと。
沈黙ではなく、言葉を選び、筆を取り、物語の修復に加わること。

物語をやめた国で、物語をもう一度つくるために。
その仕事は、まだ終わっていません。

***

2025年7月13日日曜日

深夜の高速で考えたこと

 



















午前2時半に武蔵野の自宅を出て、車で奈良を目指しました。50年近く運転してきましたが、長距離はそろそろしんどくなってきた、、、、。とはいえ、雨さえ降ってなければ、深夜の運転は好きです。すいている道を、自分のペースで走る感覚。これは若い頃から変わりません。

ところが、今の深夜の高速は様子が違います。足柄SAに着いたのは午前3時半だったのですが、駐車場はほぼ満車。売店やレストランは閉まっているのに、人だけはやたら多い。深夜割引の影響か、トラックも乗用車も列をなしていました。静岡SAも岡崎SAも同様。まともに休憩できる場所すら確保できません。

かつて、深夜の高速は“自由の時間”でした。だが今では、そこにも「割引のある時間に一斉に動く人たち」が詰め込まれています。

こうして見ると、「若者の車離れ」という言葉にも別の意味が浮かび上がってしまいます。

たしかに、都市部では車を所有しない若者が増えた。経済的な理由もあるし、カーシェアや公共交通が便利になったこともあります。だが単に「持たない」のではなく、「持つことの責任や煩わしさを避ける」傾向が強まっているように感じるのです。

もちろん、経済性や便利さを追求するのは悪いことではない。

けれど

深夜のサービスエリアで見かけた人々──どこかに向かっているはずなのに、誰もどこにも向かっていないように見えてしまいました。

午前0時を過ぎてから高速に乗ると割引になります。それだけの理由で、時間を調整し、眠い目をこすって車を走らせる。制度に合わせて動くことで、確かに少し得をする。だがそれは、自分で決めているように見えて、3割の割引のために(3割は大きいですが)、自分の行動を最適化しているだけではないか。

これは、高速道路だけの話ではありません。いま私たちは、知らないうちに「自分で考えること」「自分で決めること」から遠ざかっています。判断のタイミングも、行動のリズムも、すべて誰かが設計した制度やルールに「乗って」動いている。そしてそのことに、だんだんと違和感を覚えなくなってきているのです。

「判断を避ける」「責任を持たない」「自分の足で立たない」。この傾向は、たんに個人の問題ではなく、社会全体の構造の問題なのではないでしょうか?とはいえ、

このような見方に同意しない方も多いことでしょう。実際に、いくつかの反論が考えられます。

まず、「深夜割引の時間に合わせて高速道路を走る」という行動については、それは制度を賢く利用した合理的な判断で、また、深夜のSAの混雑を見て「社会の自律性の低下」や「自己家畜化」と結びつけるのは、社会批評としての飛躍ではないかという指摘もあると思います。交通量の増減や休憩タイミングの集中といった現象に、過剰な意味づけをしているのではないかという冷静な見方です。

さらに、「若者の車離れ」についても、これは単なる消極的選択ではなく、環境意識やライフスタイルの変化の表れだという解釈もあります。車を持たないことが、必ずしも「責任を取りたくない」ことには直結しない。むしろ、他の選択肢が増えたからこそ、「持たない」という主体的判断をしているとも考えられます。

また、私が問題視したような「制度に合わせて動くこと」についても、制度やルールに従うことが自動的に思考停止を意味するわけではないと。

現象に意味を読み込みすぎているのではないかという反論も成り立ちます。たまたまSAが混んでいた、たまたま人が集中していた──そんな偶然を、社会の病理の象徴として語るのは、やや拡大解釈だという声もあるでしょう。

最後に、私が示唆したような「誰も考えていない」といった前提自体に、疑問を投げかける人もいるでしょう。そこにいた一人ひとりには、それぞれの判断や目的、事情があるはずで、「考えていない」という決めつけそのものが、むしろ老害そのものではないか!

こうした反論は、たしかに一理あります。それでも私は、あの深夜の高速道路に流れていた空気(reading the room)──「便利さ」の裏側で少しずつ蝕まれていく自律性や判断力──に、どこか現代の日本社会のひずみが重なるように感じてしまうのです。近未来のディストピアとしての日本を、、、、。

車のハンドルを握るその手に、私たちはまだ「自分の行き先」を選ぶ感覚を持ち続けているでしょうか。あるいは、それすらも、気づかぬうちに誰かに委ね始めているのかもしれません。

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2025年7月11日金曜日

自己家畜化するジャポン

ブリューゲル 怠け者の天国(1567年) 

怒りの奥にある笑い


最近、つくづく思います。

「税金、もう払いたくない」と。

こんな気持ちになるのは、生まれて初めてです。脱税したいわけではありません。
ただ、今の政権や政治家たちの顔を思い浮かべながら、自分の稼ぎの一部を渡していると思うと、心の奥からじわじわと怒りがこみあげてくる。
そのお金で、彼らはどこかの料亭で笑い合っているのだと思うと、ふざけるな、と言いたくなるのです(私は料亭に対する妬みや羨望はありませんよ、念のため)。

私が若い頃、日本人はもっと違う国民だったように思います。
身体は丈夫で、顔にも誇りがあった。理屈ではなく、生き方に一本筋が通っていた。
ところが今はどうでしょう。「よく働き、文句を言わず、規則を守る」──そういう意味では高性能かもしれませんが、すっかり従順な生き物になってしまった。

これは「家畜化」です。しかも、自主的な。
首輪は必要ない。自分で喜んでつけているのです。

便利さに慣れすぎてしまいました。スマホがあれば脳はいらない。AIがあれば思考もいらない。判断することを放棄し、「選んでも変わらない」と言い訳して選挙にも行かない!
その結果が、今の総理です。

その総理という神輿が、いかに軽いか。
もう、風で揺れているのが見えるほどです。

けれど、その神輿を担いでいるのは誰か。
メディア、官僚、そして「おとなしい」私たち国民です。
彼らが何をしようと、顔色ひとつ変えずに税金を納め、口をつぐむ。
それを「成熟」という人もいるでしょう。
しかし私には、それが沈黙することが賢さだと信じ込まされた教育の成果に思えるのです。

実はそれこそが、虚無的な服従であり、自主的隷従というものです。
怒るべきときに怒らず、問うべきときに問わない。
そして、何も期待せず、何も望まず、「どうせ変わらない」と心の奥でつぶやく。
これを知性の退化と呼ばずして、何と呼ぶべきでしょうか。

科学技術が進歩し、生活は確かに便利になりました。
でも、その便利さの代わりに、私たちは何を差し出してきたのでしょうか。
怒る力、感じる力、疑う力──つまり、人間らしさの根幹です。

「考える葦」どころではない。今や、ただそこに飾られている「しゃべる観葉植物」のような存在感になりつつある。

目の前にはAIがあります。
これは確かに賢い。文句ひとつ言わず、瞬時に答えを返してくる。
人間が担っていた知的労働も、もはや朝飯前です。

このままいけば、「怠け者の天国」はすぐそこです。
ブリューゲルが描いた、焼かれた豚が自ら歩いてくるような楽園で、人間たち(学者・兵士・農民)はだらしなく寝そべっている。そんな風景が、もはや現実になりつつあります。

「AIがやってくれるから大丈夫」と言いながら、自分で何かを決める力を手放していく。
まるで、レールの先に崖があると知りながら、「自動運転だから安心です」と笑っているドライバーのようです。

私が若い頃には、違和感に対して声をあげる文化が、かろうじて残っていました。
中国でも、アメリカでも、そして九州の町でも、人はもっとむき出しで、もっと不器用でしたが、自分の言葉で生きていたように思います。
当時の日本人が今より自由だったとは言いません。けれど、敗戦の意味や日本の近代化の矛盾について、語ろうとする気配はあった。

ではなぜ、今はそれが失われたのか。

答えの一端は、戦後の占領政策にあるかもしれません。
GHQが目指したものは、制度の変更だけではなかった。
もっと深いところで、日本人の精神を壊すこと──つまり、主体性と怒りの文化を断つことにあったのではないか。
そして、その目的は80年かかって見事に達成されたのかもしれません。

それでも、文化の断片がどこかに生き残れば、いつか後の世代(孫たちが大人になった世界)が問いかけるでしょう。

「ねえ、なぜ日本人はあんなに素直に従っていたの?」
「なぜ誰も怒らなかったの?」
「日本って無くなってしまったんだね、、、」

私たちはこう答えるしかないのかもしれません。

「だって、怒ってもどうせ変わらないから」

──それこそが、この国を蝕む最大の病なのです。

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2025年7月10日木曜日

「文化」と「文明」のあいだで ── 今、教養とは何かを問う

 1980年代初期に北京の内部書店で購入した日本語版『毛主席語録』(初版)。




前書きは、毛沢東暗殺に失敗し謎の死を遂げた林彪です。



「文化」と「文明」のあいだで  ──  今、教養とは何かを問う

教養ある中国人とは誰か?

平川祐弘さんは「権威に盲従しない人」と言います(産経正論2025年7月8日)。なるほど、それは実に納得のいく定義です。だとすれば、日本における「教養ある知識人」とは誰のことを指すのでしょうか。

AIが急速に一般化し、「知識」へのアクセスがかつてないほど容易になった今こそ、本当の意味で問われるべきは「文化と文明」のバランス感覚だと思います。科学技術が文明を前に進める一方で、それをどう使うのかという価値判断は、つねに文化に根ざした教養に依拠せざるをえません。

私は、来年古希を迎えます。思い返せば、私の思考の支柱になってきたのは、学校でも教師でも教科書でもありませんでした。むしろ、明治から昭和初期にかけての知識人──いわゆる「文豪たち」の言葉でした。福沢諭吉、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治……。彼らが直面していたのはまさに「文化と文明の相克」という現代的なテーマだったのです。

平川さんの記事でも指摘されていたように、かつての日本では「教養」とは漢籍に通じることを意味し、それに代わって西洋古典が読まれるようになってからも、文学や思想の素養は知識人の証でした。けれど今では、教養の中身そのものが曖昧になり、英語すら手段としてしか扱われず、学ぶべき「日本の近代古典」すら忘れられつつあるように思います。

一方、中国では『四書五経』が国民的古典としての地位を失い、かつて毛沢東の語録がそれに取って代わるかに見えた時期がありました。だが結局、『毛沢東語録』は読まれる古典にはなりきれず、現代の中国においても「敬意をもって読むべき本」が不在のままです。皮肉にも、教養ある中国人とは「語録を読まない人」と定義される時代になっているというのです。

日本においても、教養は形骸化しつつあります。全集を揃える家庭は減り、本棚の存在感はスマートフォンの画面に取って代わられました。それでも、私たちは「本を読む民族」から完全に堕ちてしまったわけではないと信じたいのです。

難解な古典に無理に立ち返らなくとも、たとえば明治の知識人の書いたものに立ち戻ることは可能です。彼らは「日本」という国家が急激に近代化するさなかで、何を守り、何を捨て、何を受け入れるかを懸命に考え、悩み、書き残しました。その営みこそ、現代を生きる私たちにとっての「教養」の原点になるはずです。

AIの時代だからこそ、人間の軸を持たなければならない。平川さんの言葉を借りれば、明治の古典を「カリキュラムの核」に据えること。それはノスタルジーではなく、未来への選択なのです。


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2025年7月8日火曜日

はじめての味──ピザ、ビーフシチュー、ハンバーガー、そしてラーメン

先日、わが家で食べたビーフシチュー

昭和三十年代の終わりか、四十年代の初め。場所は福岡市、天神か川端のあたり。正確な場所は記憶の中で少し曖昧ですが、そこに洋画のロードショーを上映する映画館がありました。なぜかその一階(?)には、ちゃんとしたレストランが併設されていて、子どもだった私にはまるで「異世界の入り口」のような場所でした。

映画館で洋画を観る。スクリーンの向こうには、現実にはない世界が広がっていて、その刺激は確実に私の人格形成に影響を与えました。でも、インパクトを受けたのは映画だけではありません。私がそのレストランで出会ったのが、人生初の「ピザ」と「ビーフシチュー」でした。

ピザは、今となってはコンビニでも買える食べ物ですが、当時の私のまわりには、ピザという料理を食べたことのある人間など一人もいませんでした。子どもながらに「これはなんだ?」と圧倒されました。

さらに強烈だったのがビーフシチューです。シチューというからには、牛乳で煮た白いスープのようなものを想像していたのですが、出てきたのはこってりとレンガ色のルウ。その中に、ジャガイモとニンジンがごろりと入っていて、そして、驚くほど大きな牛肉のかたまり。しかも、その肉が、箸でも崩れるほどに柔らかかった。これが“牛肉”なのかと、言葉を失いました。

もうひとつ忘れられないのが、佐世保で食べたハンバーガーです。食べたのは1964年11月、米原子力潜水艦「シードラゴン」が佐世保に寄港したときのこと。当時、核を積んだ原潜の寄港は社会問題となっており、全国で反対運動が起きていました。そんな中、父がなぜか「原潜を見に行こう」と言い出して、福岡から佐世保まで車で連れて行かれました。

昼時に立ち寄ったのが、アメリカ海兵隊相手に営業しているバーでした。昼間だけランチ営業をしていたそのバーのカウンターで、父と並んで出されたハンバーガーにかぶりついた記憶が、いまも鮮明に残っています。パンにはさまれていたのは、肉のパティとスライスオニオンだけという、実にシンプルなものでしたが、それがとにかく旨かった。ポパイの漫画に出てくるウインピーが手にしていた“謎の食べ物”が、ようやく目の前に実体をもって現れた瞬間でした。

そしてもう一つ、福岡スポーツセンターのプールの帰りに友人と食べた町中華のラーメン。お金がなかった私たちは、一杯のラーメンを二人で分けて食べました。今でこそ「豚骨ラーメン」として知られていますが、当時は単に“ラーメン”と呼んでいた気がします。スープは白濁していて、上にはきくらげと紅ショウガがのっていました。器から漂う独特の香りと、どこかクセのある味。でも、それが妙にうまかった。どこか知らない町のにおいがしたのです。

私は4歳から14歳までの10年間を福岡で過ごしました。だから、人生で初めて食べた「外の味」はほとんどがこの町での出来事です。ピザも、ビーフシチューも、ハンバーガーも、ラーメンも。今となっては定番中の定番ですが、あの頃の私は、それらに触れるたびに、世界の広さを体感していたのだと思います。

子どもの頃に「本物の味」に出会っておくことは、とても大切なことです。

それは単なる味覚の話ではありません。社会に出て、一流の人たちとともに働く中で痛感するのは、「本物を知っているかどうか」が、その人の判断力や直感に大きく影響するということです。本物を知っていれば、ニセモノに対して本能的な違和感を覚えるようになる。料理でも、仕事でも、人でも、そして言葉でも。

あの映画館も、あのレストランも、もうないでしょう。けれど、スクリーンの暗がりと、皿の上の衝撃の味は、いまも私の中に生きています。もしかしたら、人生の方向性は、あのとき、すでに定まっていたのかもしれません。   

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2025年7月7日月曜日

国の未来を語れない人たちが、未来を握っている件

日本の夜明けはくるか? それとも将来はすべて山の中か?

たまには政治家の“生の声”でも聞いてみるか。参院選も近いことだし、各党の党首が何を語るのか一応チェックしておこう。そう思って、車のラジオをつけたのですが……五分もしないうちに不愉快な気分になりました。


いや、ひどい。あまりにもひどい。

議論の低空飛行ぶりに耳を疑ったのは、一度や二度ではありません。企業経営をしていると、財務諸表のトップの数字、つまり売上高が作れないことが何よりつらいものです。日本の最大の問題は、まさにこの「トップの数字」が国として作れていないことにあります。にもかかわらず、言い方は違いましたがその核心に触れたのは作家の百田尚樹さんだけでした。あとは数字をいっぱい並べて胡麻化そうとするだけで、それではやたら味を濃くする素人の料理と同じです。言葉はあっても、その重みが感じられない。ビジョンを提示し、実行計画を聞かれているのに、そこから逃げているように見えました。

私にとって驚きだったのが、山本太郎が「少しだけ」まともに聞こえたことでした。

あの山本太郎が、です。私にとって彼のイメージは、映画『難波金融道』に出てきた、調子のいいノリで利息の取り立てをする闇金の舎弟公平くん。威圧感ゼロの軽薄キャラ。信用できる人物だとは今でも思っていませんよ。ただ、それほどまでに他の党首たちの話がひどかった。相対的に見えてしまっただけです。むしろ、そう見えてしまったこと自体が、日本の政治の末期的症状を表しているのではないでしょうか。

石破さんに至っては、いったい何を言っているのかもよくわからない。

テープの再生どころではなく、どこを見て誰に向かって話しているのかが不明。人間の温度というよりも、私の人生において、絶対に友達にはならない種類の人です。私は石破さんを何十年も前から見ていますが、安倍元総理が「一番総理にしてはいけない人物」と評したのも頷けます。しかし、その石破さんが、総理大臣になってしまった。神輿は軽い方がいい。官僚にも、野党にも、敵対国にも、そして党内のライバルにとっても。

維新の吉村さん、国民民主の玉木さんも同様です。言葉が薄っぺらい。社会経験が乏しいから、言葉に血が通っていない。結局のところ、彼らも「選挙目当て」で、使い回しのセリフを繰り返しているにすぎません。

被害を被っているのは、私たち国民です。

無能で、しかし権力欲だけは強い。そんな人物を「トップ」に据える代償を、国民が税金というかたちで負担している。本当に怖いのは、こうした光景に、国民が何も感じなくなっていることです。いや、正確には、「感じてはいるけれど、諦めている」ことです。何を言っても無駄。誰がやっても同じ。選んでも、変わらない。そんな空気が、社会全体に広がっています。

こうした政治家たちの姿を見ていて、作家である百田さんの言っていることが一番まともに思えました。いや、正確には、私の考えと近い部分がいくつかあったというだけです。ただし、それを公言するのは、「日本の空気」の中ではあまりにも誤解を生みやすい。だから、これまであえて言及しませんでした。こうして「言ったら損」という雰囲気そのものが、この国の病なのかもしれません。

たぶん、私たちはもう、とっくに答えを知っているのかもしれませんね。

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2025年7月6日日曜日

リーダーなきAI時代を、文化はどう生き抜くか


参議院議員選挙の期日前投票に行ってきました。
車の中で党首討論のニュースを聞きながら、暗澹たる思いになりました。


ガラパゴスAIでもいいじゃないか 

中国のAI開発は、どうやらこのまま独自路線を突き進む構えのようです。しかもその進化は、あくまで中国共産党の方針に則ったかたちで行われる見込みです。つまり、都合のいい出力だけをAIにさせ、検閲済みのコンテンツを中国国内はもちろん、東南アジア、アフリカ、南太平洋の小国、さらには南米諸国へと拡散していく。もう始まっていると言っても過言ではないでしょう。

一方、三権分立などという「面倒な仕組み」が存在しない国が、AIの世界で主導権を握ることには、大きな危険がつきまといます。チェック機能がないAIほど恐ろしいものはありません。言ってみれば、ノーブレーキで暴走する大型トレーラーのようなものです(loose cannon)。

アメリカもまた、AI規制については頭を抱えています。州ごとに法律が異なるうえ、利害関係者も多く、法整備はまるでジャングルの中を手探りで進む探検のようです。自由は多いが、統一感はない。それがアメリカの強みでもあり、弱点でもあります。

日本に残された可能性

では日本はどうか。実は、AI時代の“隠れた本命”になり得る条件がいくつか揃っています。中央集権型の統治システムを活かせば、AIに関する法整備も比較的スムーズに進められるはずです。もっとも、そこにはリーダーシップという魔法の言葉が必要です。そして、それが今の日本に最も欠けているという現実。何とも皮肉な話です。

さらに残念なことに、日本の政治家にはリーダーシップだけでなく、AI時代にもっとも求められる「倫理観」が見当たりません。倫理と論理の区別もつかないのでは?と首をかしげたくなるような発言が、党首討論でも飛び交っています。

政治家こそ、AIのように強大な力を持ちながらも、国民のことを考える倫理観を第一にすべき存在のはずです。そもそも、そういう志があって政治家になったのではないのでしょうか。そう信じたいのですが、政治家の言動を見る限り、その “はず” はもはや “幻想” なのかもしれません。

文明が文化を食いつくすとき

AI技術の発展は、確かに人類にとって大きなチャンスでもあります。しかし、それは同時に、文化という繊細で時間をかけて育まれてきたものを破壊する力をも内包しています。アメリカと中国に共通するのは、他国の文化をあまり尊重しないという姿勢です。効率と支配、合理と規模。そんな価値観がAIと結びつくと、世界は文化の砂漠と化すかもしれません。

それに対して日本は、数千年にわたって文化を育んできた稀有な存在です。明治維新以降、急速に西洋化を進め日本精神の崩壊を促進した。敗戦後はアメリカ化に突き進みましたが(自発的隷従)、まだ取り返しがつかないほどではありません。今こそ、自国の文化と精神を見つめ直すチャンスではないでしょうか。

ガラパゴスAIという選択肢

「日本のAIはガラパゴスだ」と笑う声もあるかもしれません。しかし、文化を土台にした “ガラパゴスAI” こそが、世界に一石を投じる価値のある存在ではないか? 合理性だけを追い求めるのではなく、倫理観、精神性、そして多様性を重んじる技術のあり方を提示する。そんなAIなら、人間社会との共存も夢ではないはずです。

日本にはその提案をする資格がありますし、責任もあります。必要なのは、未来を見据えたビジョンと、それを語れるリーダーです。そして何より、文化の重要性を忘れない感性です。

高齢者としての、ひとりごと

私はもう高齢者です。この国の行く末を決めるような大きなことはできません。能力も財力もありません。静かに暮らし、やがて黙って消え去る存在です。しかし、今の政治や政治家を見ていると、やはり黙っていられない。子や孫が生きていく未来の日本が、文化も倫理も失った無機質な国になるかもしれないと思うと、不安を覚えます。

どうか日本のリーダーたちに、文化と文明のバランス感覚を取り戻してもらいたい。そして、日本という国が「人間らしさ」を軸にAIとの向き合い方を世界に提示できる……そんな幻想くらいは、まだ捨てきれずにいます。
    
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